2009年9月13日 のアーカイブ

単語主義と文脈主義

2009年9月13日 日曜日

人の振る舞いや言葉は、発信者の意図にかかわらず、解釈は全て受信者によってのみ行われる。

つまり、発信者の行動や言葉が発信者の意図通りに解釈されるなんてことは絶対にあり得ない、ということを、議論・行動・生活の前提に置く必要がある。

ということを、最近とみに感じる。……泣いても、いいですかね。

・麻雀関連
 「だらだら遊ぶ」という言葉は、単語のイメージで読むと、それ自身が自己矛盾を起こしている。
 「だらだら」⇒長時間手を抜いて、「遊ぶ」⇒主体的に全力で取り組む、のイメージがあるためである。
 この場合、解釈の方法として、「だらだら」か「遊ぶ」の、どちらかの意味を縮小しないと通じない。

 縮小例1)「だらだら」⇒長時間 (「手を抜いて」を削除)
 縮小例2)「遊ぶ」⇒取り組む (「主体的に」と「全力で」を削除)

 どっちを削除するかは文脈次第だったりするが、発信者=前者、受信者=後者だったりすると、
 「長時間、主体的に全力で取り組む」⇒「長時間手を抜いて取り組む」、として、姿勢として全く逆のとらえ方になる。

演習課題1)上記と同じ形で「まったり楽しむ」の矛盾構造を解釈し、異なる複数の意味を導出しなさい。

・親戚による婚活カウンセリング
 「産む機械」発言を、本当に「産む機械」と読むような文章読解の手法が、世の中では存外広く用いられているらしい。
 ふざけるなとか半分思うものの、そういう読み方を出来なかったゆえに、人を傷つけたという事実は揺るがない。
# そういう読み方は経験次第でいくらでも身につくらしい。この手の「どうとでもとれる」読み方から本心を読み取れ……って、それすでに文章読解じゃねーから、とか思うんだが世の中では「わかりやすい文章読解」らしい orz

 また、私に対する評価と私のセルフイメージは、どうしようもなく異なる物の様子。セルフイメージ「鋭く尖る論客」に対し、親戚の評価「おおらかで頼れる聴き手」……一応理屈は通るが、私には「考え込むと表情が怖い」性質があるようで、普通に行動していると「よくわからないうちに逆鱗に触れている」と解釈される可能性がある。どーせいと。

演習問題2)セルフイメージ「鋭く尖る論客」から発生し、外部評価「おおらかで頼れる聴き手」に至るための行動パターンを考察せよ。

・その他日記っぽいこと
 午前中、寮の自治会の役員会やってました。やっと会長を降りる道筋が立った……。
 午後いち、先輩方の寄付(寮の備品)である麻雀牌を整頓しながら次期自治会長と雑談しているとき、彼の決意を聞いた。「後輩もっと使いますよ」。その言葉を聞いて、自治会長としての私の成果と課題をよく見てくれてたんだなぁ、と実感。晶子(姉)に惚れる聖佳さまって、こんな心境だったのかねぇ……。

 その後、移動しながらバカテス1巻読む。数学の問題「4 sin X + 3 cos 3X = 2; Xの値を求めよ」の解き方をじっくり考えたが、結局分からず悔しい思いをした(答えの確認はすぐ出来るんだけどね……)。数学ガールに毒されてるなぁ、とか思いつつ。

 移動した先で、婚活関連のカウンセリングを受ける……と言っても相手は親戚。こちらとしては幼少時代から見て貰っている相手だったりするので、だいぶ話しやすかったりもする。
 自分の「アンチ常識」の行きすぎ感に辟易しながらも、この考えから逃れられない自分の姿を再発見する。幸せな老夫婦を見て危機感しか感じない、というのはさすがに自分の感覚がおかしい。(私の感覚を理解するためには、情報処理試験で「直列システムの信頼性」の問題を解いてください。ぐぐれば出てきます)
 ……のは分かってるんだが、感覚というのは錯覚でない限り、自分の中で絶対のもの。自分の中で消化していかない限り、

 感覚を変えていく、常識を変えていく、意識を変えていく。

 「ふたりはひとりよりもまさっている」(伝道者の書4:1-16)という言葉に、無条件で同意できるようになったそのときに私の自分改革は始まるのだろうか。