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二律背反とは弁証待ちの状態 ―― to a higher place!

2009年5月1日 金曜日

[2007/12/25 19:40 初稿 // 19:52 文中に少しだけ追記]
・『おとボク』が『マリみて』の存在意義を否定するものでないこと
・『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと

だいぶ昔の記事でのコメントにて、上記二つを証明するチャレンジを受けた。
証明の題材を書き散らすだけであれば非常に容易いが、実際に分かる文章で書くとなると非常に難しく、現在も難航している。要するに、自らの理論に振り回されすぎ、当面、完成しそうにないわけだ。だいぶ難航したが、2009年5月になり、なんとか仕上げることができた。

【1:マリみては百合じゃない ―― “Love” is only a strong word of “Like”】
【2:男なのにお姉さま、男女の恋愛なのに百合? ―― see the boy in a viewpoint of yuri, or shojo-ai】
【3:「可愛い」は、女の子の特権じゃない ―― to be pretty is justice, even if the one is a boy or a girl】
【4:百合? ヘテロ? だから何。 ―― you need not consider gender when you fall in love】
【5-1:「百合」の言葉を定義する ―― clarify “yuri” as a difference with “sho-jo ai”】
【5-2:CTRLキーからエロゲーを考える ―― do we need porno in hentai game?】
【5-3:常識という鎖にとらわれた、哀れな子羊への鎮魂歌 ―― no one can understand revolution if his world is only one】

第1章では、命題の1「『おとボク』が『マリみて』の存在意義を否定するものでないこと」を示す。
具体的には、マリみてについて、ジャンルの近いとされる作品と比較しながら検討する。

第2章から第4章にかけて、命題の2「『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと」の証明を行う。
第2章では、おとボクについて、第1章とは別の立場からマリみてと比較しながら検討する。
第3章では、おとボクから離れ、女装少年というものについての考察を行う。
第4章では、作品世界の議論を離れて、社会学と生物学の観点から、現実世界の議論を展開する。

以上が、示された命題に対する私なりの解答となる。

第5章では、私から彼の論説そのものへの反論を、3つの行いつつある。
5章の1では、百合という言葉について、ケーススタディに強い「定義」を示し、その考察を行うことで、おとボクの立場を確認する。
5章の2では、現在流通するアダルトゲームの性質を考察することで、おとボクの立場を再確認する。
おとボクに関する考察は、5章の2で完了する。
5章の3では、より一般的に、論説に対する私の見解を示し、彼の論説そのものへ反論を行う。

形としては、彼に、先に「統括」されているが、こちらとしては、まだ、言いたいこと「しか」言ってない(納得できるだけの証拠をつきつけていない)ので、中間地点としては仕方ない着地点なのかな、と。

私の場合、自分の理論に自分自身がついて行けないことはしばしばあるが、おとボクについては、それが特に顕著であるため、記事の完成はしばしお待ちいただきたく。
自分との戦いはまだしばらく続きそうではあるが、本記事が埋もれないうちに、更新できれば幸いと思う。
本件に関する私の論説は、おそらくはここまでとなろう。修正がある場合、(漢字/語句の単純ミスを除いて)該当の記事に更新履歴を残す予定である。

[2008年3月7日 2:05]
上記記述の修正を行いました。
文章の分量の問題から、2章を3分割し、章番号の付け替えを行っております。
[2008年4月22日 23:59]
第3章をアップロードしました。
[2008年5月2日 23:59]
第4章をアップロードしました。それにともない、本文を修正しておりますが、論旨に変更はありません。
[2008年12月18日 14:47]
第5章を3分割し、最初の一つをアップロードしました。
[2009年4月12日 12:54]
第5章の2番目をアップロードしました。それにともない、本文を修正しておりますが、論旨に変更はありません。
[2009年5月1日 2:54]
第5章の3番目をアップロードしました。それにともない、本文を修正しております。

常識という鎖にとらわれた、哀れな子羊への鎮魂歌 ―― no one can understand revolution if his world is only one

2009年5月1日 金曜日

2007年より細切れで発表してきた本稿も、これで最終稿となる。

ここまで、
・『おとボク』が『マリみて』の存在意義を否定するものでないこと
・『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと
を、マリみて/おとボクの比較から示し(1章,2章)、女装少年/現実社会の立場から、これを補強した(3章,4章)。また、補足として、
・百合の定義を示し、百合に関する論争を定義から検討することを可能とし、おとボクへの検討に適用した(5章の1)
・アダルト表現を本質としないエロゲーの存在と定義を示し、おとボクがこれに属することを示した(5章の2)
 二つの補強を実施した。

 本章では、最後に、私の視点から、彼の論理そのものについての反論を行う。
 専門家でない私にとって、インターネットという武器は、反論の大きな助けとなったが、本質を読まずに情報を鵜呑みにすることほど、論説にとって危険なことはない。
 ただし、個人がインターネットへ発信できる時代、情報に対して本質へのアプローチを試みる記述は多くあり、これらの記述は本質を読もうとする上で、理解の助けとなることも多いが、逆に理解を妨げる場合もあるので注意する。

6.1 論説の条件

 まず、論説というものについて考える。
 論説とは、次の手順で行われる。
 (1)目的を示す(アウトラインも示してあげると親切)
 (2)前提の情報を示す
 (3)情報から意味を抽出し、定義と公理系をつくる。
 (4)定義と公理系を用いて、結論を導く
 (5)結論が目的にかなっていることを確認する
 実際は、定義と公理系が明白として(3)を省略する、抽出の方法から正当性および結論は明白として(4)を省略する、など、不要な部分を適宜枝切りしていくことになるが、不要と思って切った枝が議論の本質だったりすることもあるので要注意。
 このとき、結論が誤る可能性があるのは、
 (1)前提の情報がおかしい
 (2)定義/公理系の作り方がおかしい
 (3)定義から結論へ至る論理に抜け/漏れ/誤りがある
 の3パターンが主に考えられる。

6.1.1 思い込みの罠——風評は事実なのか?

 まずは、(1)前提の情報がおかしい、について考えてみる。
 よくありがちなのが、わかりやすく要約した事実を、不適切に一般化することである。この問題は新聞やメディアを情報源とした場合に発生しやすいが、要約することで本質が抜け落ち、さらにその操作の誤りを一般化するために起きる。

 これの対策について、よく言われる指摘が、「一次ソースをあたれ」というものであるが、一次ソースにアクセスできて、かつ、その内容を十分に理解できる時点で、その道の専門家と言って差し支えない。
 だが、これでは、専門家以外が議論することが一切許されなくなってしまう。「餅は餅屋」とはいうが、餅を食べるのは一般の消費者であるがゆえ、餅屋以外が餅について分からなくなったら餅という食べ物は終わりである。
 では、どうするか。
 二次ソースの中でも、できるだけ多角的な視点から情報を集めること、集めた情報の中で「一次ソースを深く分析しているもの」を選択することである。このとき、分析のプロセスについて批判的に読むことも重要である。ここで、批判的、とは、提供された事実をおおかた認めた上で、分析のフレームワークを詳細に検討することである。たとえ同じ事実でも、異なるフレームワークで検討すれば真逆の結論を導くことさえ難しくはない。
 もちろん、一次ソースにアクセス可能ならばアクセスし、それをもとに検討することは当然である。二次ソースに要約されているものは、枝葉を落とされた結果とに他ならず、すなわち、本当においしい隅っこの部分が切り捨てられたものであることに注意する。

6.1.2 事実の罠——常識と権威から脱却せよ

 次に、(2)定義/公理系の作り方がおかしい、という問題について考える。
 ここでもっとも目立つミスが、「示されたものをを丸飲みする」問題である。ここでいう「示されたもの」には、大きく「事実(データ)」「常識」「権威」の3種類があるが、論点は同じなので、以下では「事実(データ)」のみを取り扱う。

 まず、データを丸飲みすることがどう問題なのか、という問いについて、一番問題視されるのは「数字のマジック」である。数字のマジックは錯覚が中心と思いがちだが、むしろ「母数の恣意性」と「情報収集の恣意性」の2点から容易に仕掛けやすい(山田真哉「食い逃げされてもバイトは雇うな」シリーズに詳しい)。
 母数については、明白なものがいくつかある。例えば、ニコニコ動画の「ニコ割アンケート」は、母集団が「ニコニコ動画を利用しているインターネットユーザー」に限られることから、たとえば政治的なアンケートでは、小沢民主党より、麻生自民党に有利なアンケート結果が出たりする。
 また、情報収集については、本weblog「アンケートの恣意性」などでも触れたことがあるが、アンケートにかかわる問題および選択肢の与え方によって、回答を誘導することが可能となる。
 「事実を丸飲みする」危険性の例は、データに限らず古今東西あらゆる場所に偏在する。例えば、「マスメディアの偏向報道」「匿名インターネットの危険」などは、しばしばトラブルを引き起こす事例として有名である。
 常識と権威についても同様に、丸飲みは危険であり、それがもたらす意味を正しく解釈する必要がある。

(例)精神障害の診断と統計の手引きにおいて、性的倒錯には「服飾倒錯的フェティシズム」が含まれるが、「同性愛」は含まれない。しかしながら、これをもって「女装は異常である」、「百合は正常である」という決め付けはナンセンスであり、かつ危険である。なぜならば、上記手引きの中で、性的倒錯と認定されるためには、
 1)当人がこの性嗜好によって、心的な葛藤や苦しみを持ち、健康な生活を送ることが困難であること。
 2)当人の人生における困難に加えて、その周囲の人々、交際相手や、所属する地域社会などにおいて、他の人々の健全な生活に対し問題を引き起こし、社会的に受け入れがたい行動等を抑制できないことである。
 の2条件を満たすことが必要だからである。常識人の場合、(2)は(1)を包含すると考えて差し支えないので、変態は、性志向により「世間に迷惑をかけるか否か」だけで定義されると言って大まかに問題ない。
 極端な話、「10歳は大人」という社会的なコンセンサスがとれていれば、たとえば10歳の子と結婚してもペドフィリアにはあたらないし、同性愛が原因で世間に迷惑をかけたらその同性愛は性的倒錯として精神障害の扱いになる(もちろん、同性愛自体は世間に迷惑をかけるものではない。宗教が絡むと話はややこしくなるが、ここは日本なので考察は省略できる)。

6.1.3 パラダイムシフト——否定は新しい世界への扉

 最後に、 (3)情報から結論へ至る論理に抜け/漏れ/誤りがある、について考える。
 単純なケースの抜け/漏れについては簡単に指摘できるが、視点および考え方、すなわち議論のフレームワークそのものに抜け/漏れがある場合は、明白にして単純ゆえ、その誤りを発見するのは容易ではない。

 読者としては、情報から結論へ至る論理について、二つの視点から読む必要がある。
 一つはフレームワークに沿って筆者の主張を理解する読み方であり、もう一つは議論のフレームワーク自体に抜け漏れがないことを確認する読み方である。
 ここで、ゲーデルの第2不完全性定理は、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。」と記述されている。自然数論とはすべての数学/算数の基礎論であることから、データ等を持ってきて議論する、「〜である」論には必ず抜け/漏れ/矛盾のいずれかが存在することが数学的に証明されている、ということである。
 ゲーデルの不完全性定理に触れないためには、証明すべき内容より強力な前提条件が必要となる。これをもっとも簡単に与えるのは「〜すべき」論であるが、これは上記(2)定義/公理系の作り方がおかしい、という批判に対してまったくの無力である。
 抜け/漏れ/矛盾が許されないのに証明できないという事実は困るため、現実の議論では、指摘された問題に対して、「その抜け/漏れ/矛盾は現実的か」「例外として無視できないか」の観点から徹底的に検討し、議論の要旨への影響を探ることが必要となる。
 この議論の中で、フレームワークそのものの誤りが指摘されることも多い。だが、問題に対してより適切なフレームワークを検討することで、今まで検討されなかった新しい事実や考え方を導くことができる。

(例)性別:秀吉
 ライトノベル「バカとテストと召喚獣」に出てくる少年「木下秀吉」について、本来は男性ながら、その女性的な容姿から男性扱いすることが問題視され、男女のどちらでもない第三の性別「秀吉」として認識されている、というものである。
 これは、「男 or 女」の分類で考えるとジェンダーの概念が破綻するため、ジェンダーの考え方を拡張した好例である。

6.1.4 まとめ:本質をつかむ——神は細部に宿る

 要するに、論説の際は、
・できるだけ正しい情報から、
・本質を正しく抜き出して、
・適切なフレームワークで議論せよ
と、それだけの話である。
もちろん、一回の論説ですべてを満たすことは不可能であり、議論を重ねることで完全に近づいていくしかない。議論と経験を積み重ねていく中で新しい概念がどんどん発生し、また、パラダイムが時代とともにシフトすることで新しい視点がまた積み重なっていく。

(例)ハイブリッドカーの戦いを眺める
 今話題の「トヨタ・プリウス VS ホンダ・インサイト」であるが、これが「電気自動車 VS ガソリン自動車」の代理戦争であることを読み取るのは、それほど難しいことではない。
 トヨタはシリーズ方式から出発し、スプリット方式を採用した後もモータに力点をおいた開発をつづけていることは、新型プリウスの仕様から明らかである。シリーズ方式は「ガソリン発電する電気自動車」の考え方であり、また、スプリット方式でもモータを中心に据えることで、この考え方を継承している上、より電気自動車に近いプラグイン・ハイブリッド方式を採用したプリウスが2010年に発売予定である。
 いっぽう、ホンダは典型的なパラレル方式であり、これは「モータ補助つきエンジン自動車」の考え方である。この考え方はマイクロハイブリッド方式でより顕著であり、安価なハイブリッド方式として、海外メーカーの人気が高い。
 自動車の選択条件として、燃費と価格が全面に出されるが、乗り心地も選択の条件として重要であり、モーターとエンジンのどちらをメインとしたほうが乗り心地が良いのかは人それぞれである。
 傍から見ると、ほとんど同じようにしか見えない二つのシステムではあるが、詳細を検討していくと哲学からして異なる好例といえる。

6.2 アンチの品格——超高難易度の証明に挑め?

 論説の条件について検討したところで、次に、「ものごとを否定する」論説について考える。

6.2.1 完全性を必要とする論説

 ものごとを否定する論説としては、「完全に主観に頼った否定」と「客観性のある否定」の二つのタイプがある。
 このうち前者は「俺は嫌いだ」で話が完結し、あらゆる読み手は「俺とお前じゃあ、考え方が違う」で終わればいいだけの問題となる。
 問題は後者、「客観性のある否定」である。

 客観性を持たせる、ということは、論理に説得力を持たせることを意味する。すなわち否定行為への「共感/納得を求める」論説を行うことに他ならない。
 このとき、否定論を展開されることは、肯定論者にとって心証の良いことではない。自らが肯定しているものについて、否定者を必要以上に増やすことはしたくない/事実を知らない人間を否定論に引き込まれたくないのは当然といえる。
 これによって、何が起きるか。肯定論者による、否定論の「客観性の破壊」である。
 否定論が肯定論者の心証を悪くする以上、肯定論者による反論は、否定論の客観性の破壊だけでなく、否定論者自身への攻撃にまでつながる可能性がある。

 これを防ぐためには、否定論は完璧でなければならない。
 少なくとも、否定論が「誤っている」という反論は、発生そのものが許されない。
 すなわち、否定論は、論理の穴をふさぐように
・正しい情報をもとに
・様々な観点から本質を抜きだし、
・事実上完全なフレームワークで論破する
 ことが求められる。

 すなわち、否定論者は、否定すべき対象について、肯定論者よりも深い理解を求められるのだ。
 嫌いだから理解したくない、でも、嫌いと言うためには誰よりも深く、完璧に理解しなければならない。
 否定論を述べるというのは、非常に知的でストレスフルな作業なのである。

6.2.2 証明の難易度

 否定論に必要なものは「完全性」であることは述べたとおりだが、完全性を求めることは、非常に厄介なことでもある。肯定論者に付け入る隙を一切与えてはならないためである。
 それに対して、肯定論は否定論が「不完全であること」を示す、すなわち反例のひとつでも持ってくれば十分なため、反論がたやすい。

 この意味でも、否定論の難易度は非常に高いといえる。
 生半可な知識と気持ちで否定論を述べると、痛い目に合うのは否定論者自身である。

6.2.3 完全性が崩されたとき

 さて、実際に論説の完全性が崩された場合の対処だが、これを誤ると論説の論理性はおろか、論者の人間性すら疑われることに注意する。

 論説の根拠あるいは論理が崩された場合、とりうる行動はおそらく以下のどれかであろう。
1. 無視する、あるいは、発狂する
2. 指摘に対して、論理崩しを試みる
3. 論理/根拠を再構築する(部分的に修正する)
4. 論説を取り下げる

 1.は論外。4. はさすがに弱いが、「(〜のため、)この論説は誤っておりました」と頭を下げれば人間性は問題なかろう。
 2.および3.は、自分と相手の論説について、根拠と論理を洗い出す必要がある。すべて洗い出した結果として、それでも自分が合っているのであれば相手に習性を求めればよい(2.)し、相手が合っていれば、同様の指摘を受けないよう自分の論説を修正すれば良い(3.)。このとき、どちらの方法論をとるにせよ、相手の主張を細部まで完全に理解することが前提となるため、慎重な検討が必要となる。主張を誤って理解している場合、論理崩しは単なる発狂であり、論理の再構築は新たな論理のほころびを呼ぶだけの作業と成り果てる。
 根拠と論理を洗い出した結果の修正が狭い範囲で済むか、論理の骨格に深く突き刺さるかは、論理の本質をどこにおいているかで決まる。筋の通った、深い本質をもとに議論していれば事実にかかわる小修正のみで済むが、事実を丸飲みした浅い理解で作った本質を直撃すると、論理の骨格が塵一つ残らない悲惨な状態になってしまう。

 なお、論理の再構築を繰り返すうちに、否定論が肯定論に変わる可能性があるが、その場合は肯定論を認めてしまえば良い。ここは、人間の度量が問われる場面であろう。

(例)ブルーレイディスクへの否定が肯定に変わったケース
 ブルーレイディスク/ハードディスクレコーダの購入を検討している友人に対して、私はSDXC規格のSDカードが将来出ることをみなして、ブルーレイディスクへの録画を「おすすめしない」立場で論を張った(BDは50GB、多層化で400GBのところ、SDXCは規格が対応し次第2TBまで見えていたため)。
 しかし、その後、録画時間を詳細に計算したところ、ブルーレイディスクの録画時間が目的にジャストフィットしていることが判明し、ブルーレイディスクへの反対論を取り下げることとなった。(参考まで、録画時間の目標が「BDディスク1枚でアニメ1クール(30分×13話=6時間30分)いけるかどうか」のところ、録画時間の試算は6時間40分であった)
 アニメにジャストフィットする規格として、BDは神と讃えられるべきではなかろうかと今は思っている(笑)。

6.3 敗北宣言——まとめに代えて
 以上、本章では、論説の書き方について述べてきた。
 ここまで張ってきた論説については、各個の事実については誤りはあろうが、それの修正が論理の本質に影響することはないと、個人的には考えている。
 
 だが、いくら正論を張っても、相手の心に届かないのでは意味がない。
 当初の私の目的は、彼に、(1)彼の論説において、おとボク(の誤ったイメージ)を代表とする女装似非百合への批判からおとボク自身を外してもらうこと、(2)おとボクを知ってもらうこと(できれば好きになってもらうこと)、の2点であったが、いずれも失敗している。
 相手の心を変えるには、自分と相手の両方を大切にしたアサーティブなコミュニケーションが絶対条件として必要であったところ、私にそのスキルが欠如していたためであろう、と推定されるが、「ではどうすればよかったのか」と問われたところで、答えは今でも思いつかない。

 これに気がついたのが、3章まで書いたころであった。
 ただし、書きかけの論説をそのままにしておくのも気持ちが悪いので、そこからおよそ1年をかけて「自分の論理」を整頓することに集中した。
 すなわち、私にとって、彼のチャレンジは自分の考えをまとめるためのチャンスであり、それ以上でもそれ以下でもなくなっていた。

 この1年半ほど、私は彼の論説を目にしておらず、また、私が彼の論説に目を通すことは金輪際ないものと推定される。
 あったとしても、おそらく論理の破綻が目についてしまうであろうから、その場でブラウザを閉じることとなろう。

 そう、私は彼との交流に、完全に失敗したのである。

CTRLキーからエロゲーを考える ―― do we need porno in hentai game?

2009年4月12日 日曜日

 前章までは、性別と性役割のあり方についての視点からおとボクについて考えてきた。本章では、エロゲーの存在意義および価値の観点から、おとボクについて考えていく。
 あらかじめアウトラインを示すと、結論は「最近の人気エロゲーはまっとうな/理想的な恋愛を描くことが目的」であり、そのためのキーワードは「CTRLキー」である。
 もちろん、この考え方はすべてのエロゲーに通用するわけではない。しかし、通用するエロゲーがそれなりに存在することを示すことが本章の目的であり、この考え方が通用しない(おそらく大多数の?)エロゲーについては検討の対象外として論旨に影響ない。

5.2.0 用語定義
 エロゲー; 性描写を含むゲーム。ここでは、PCゲームに限定して考える。
 ギャルゲー; 女の子キャラクターと仲良くなることを目的としたゲームのうち、直接的な性描写を含まないゲーム。
 アダルトシーン; 性描写がなされる部分。

5.2.1 CTRLキーとは

 CTRLキーとは、PC用キーボードのキーの一つ。通常はCTRLキーを押しながら他のキーを押すことで、ソフトウェア特有の動作をするために用いられる(例:Windowsアプリケーションの大半においては、CTRL-Cでコピー、CTRL-Vで張り付けなど。これをコピペ(Copy and Paste)というw)。詳しくはWikipediaにて。
 しかしながら、エロゲーにおいて用いられるCTRLキーの操作は、上記の定義に当てはまらない。エロゲーにおいては、CTRLキーは独立キーとみなされ、もっぱら「シナリオ(テキスト・シーン等)のスキップ・早回し」に用いられる。この操作はほとんどのエロゲーに当てはまるデファクトスタンダードとして定着している。

 この用途は本来、
 ・日常生活などのパートをスキップして、早くアダルトシーンにたどり着く
 ・共通シナリオなど重複するシーンをスキップして、アダルトシーンのCGのコンプリート(完集)時間を削減する
 ためのツールとして開発されたと推測される。

 しかし、CTRLキーは、ユーザーによって新しい使い方を発見された。すなわち、エロゲーの「売り」であるアダルトシーンをスキップ・早回しする用途である。
 これは、別名「エロシーンスキップ」あるいは「Hシーンスキップ」などと呼ばれ(以下、エロシーンスキップで統一する)、エロゲーのプレイヤー間ではそれなりに認知されている使い方である。
 では、なぜそのような概念が発生したのだろう? そして、スキップされたアダルトシーンにはどのような意味があるのだろう?

5.2.2 エロゲーにおけるアダルトシーンの必要性について

 最近流行しているエロゲーについて考えてみると、そのほとんどが「一対一のまっとうな恋愛」を描いていることに気がつく(シチュエーションがまっとうかどうかは別として)。以下、各年度におけるベスト10を挙げてみる。(いずれも、テンプルナイツ~宮廷騎士団~より引用。ソースは2006年度までがPC NEWS(閉鎖)、2007/2008年度がTECH GIANとのこと)

 2008年
1. FORTUNE ARTERIAL(オーガスト)
2. ToHeart2 AnotherDays(Leaf)
3. リトルバスターズ!エクスタシー(Key)
4. 闘神都市III(アリスソフト)
5. 超昂閃忍ハルカ(アリスソフト)
6. つよきす2学期(きゃんでぃそふと)
7. プリンセスラバー!(Ricotta)
8. ティンクル☆くるせいだーす(Lillian)
9. タユタマ -kiss on my deity-(Lump of Sugar)
10 さくらシュトラッセ(ぱれっと)

 2007年
1. リトルバスターズ!(Key)
2. 君が主で執事が俺で(みなとそふと)
3. 恋姫†無双~ ドキッ★乙女だらけの三国志演義~(BaseSon)
4. 聖なるかな -The Spirit of Eternity Sword 2-(XUSE)
5. D.C.II Spring Celebration(CIRCUS)
6. 桃華月憚(ROOT)
7. あかね色に染まる坂(feng)
8. マブラヴALTERED FABLE(age)
9. HoneyComing(HOOK)
10 あねいも2~Second Stage~(bootUP!)

 2006年
1. 戦国ランス(アリスソフト)
2. マブラヴオルタネイティブ(age)
3. D.C.Ⅱ(Circus)
4. Really?Really!Limited Edition(Navel)
5. ef -the first tale.(minori)
6. Scarlett(ねこねこソフト)
7. Pia★キャロットへようこそ!! G.O.(カクテルソフト)
8. 妻しぼり(アリスソフト)
9. Circus Disk Christmas Days(Circus)
10 みにきす つよきすファンディスク(きゃんでぃそふと)

 2005年
1. Fate/hollow ataraxia (TYPE-MOON)
2. ToHeart2 XRATED(Leaf)
3. 夜明け前より瑠璃色な(オーガスト)
4. 智代アフター It’s a Wonderful Life(Key)
5. ぱすてるチャイムContinue(アリスソフト)
6. つよきす(きゃんでぃそふと)
7. SchoolDays(Overflow)
8. _Summer(HOOK)
9. Fate/stay night(TYPE-MOON)
10 はぴねす!(ういんどみる)

 2004年
1. Fate/stay night (TYPE-MOON)
2. CLANNAD(Key)
3. SHUFFLE!(Navel)
4. 下級生2(elf)
5. ラムネ(ねこねこソフト)
6. Canvas2 茜色のパレット(F&C FC01)
7. D.C.P.C. ダ・カーポ プラスコミュニケーション(Circus)
8. 君が望む永遠 special fandisk(age)
9. オーガストファンBOX(オーガスト)
10 RanceⅥ ゼス崩壊(アリスソフト)

 おとボクが2005年の20位にとどまっているところは個人的に納得いかない(笑)が、大人の事情ゆえ仕方ないとあきらめる。閑話休題。
 ここで、上記ランキングについて、以下の操作を実施する。

 操作:アダルトシーンが主な見所であろうと推測される作品を抽出
  (エロシーンスキップが差し支えなさそうだと独断と偏見にて判断したものを削除。知らない作品はページみて判断。判断不能な作品は括弧でくくっておく)

 2008年
4. 闘神都市III(アリスソフト)
5. 超昂閃忍ハルカ(アリスソフト)
 2007年
10 あねいも2~Second Stage~(bootUP!)
 2006年
(1. 戦国ランス(アリスソフト));Rance(抜きゲーRPG)見なしか、鬼畜王ランス(戦術SLG)見なしか。Ranceシリーズ自体がゲーム性メインの作品であるならば「RanceVI ゼス崩壊(2004)」とともに除外する必要あるが判断つかないため残す。
8. 妻しぼり(アリスソフト)
 2005年
(2. ToHeart2 XRATED(Leaf));TH2と見なすか、差分が重要と見なすか。
 2004年
10 RanceⅥ ゼス崩壊(アリスソフト)

 上記操作の結果、残ったソフト数は、5(7)/50となった。さらに、上からゲーム性に定評のある(すなわち、アダルトシーンも含め、すべてのシーンをCTRLスキップして問題ない可能性のある)アリスソフトを除くと、1(2)/50しか残らない。したがって、CTRLキーにエロシーンスキップの考え方を割り振って問題ないと推定される作品が、人気作品の9割近くを占めていることがわかる。
 注意として、To Heartのあかりシナリオ、おとボクの奏シナリオ等のように、シナリオに対してアダルトシーンが本質的な役割を果たす作品も存在する可能性あるが、この場合は「CTRLキーにエロシーンスキップの考え方を割り振って問題ないと推定され、実際のプレイを通して推定の誤りがわかる」と処理する。

 以上の考察から、エロシーンスキップの考え方に一定の有用性があることがわかった。データ操作の恣意性について、本稿の目的に有用性の定量的計測および全体適用可能性の証明は含まないことから、論旨の補強には影響ないと推定する。

5.2.3 エロゲーとギャルゲーの互換条件

 上記の論旨からエロシーンスキップに有用性を認めた場合、エロゲーとギャルゲーの差について、大きな疑問が残ることとなる。すなわち、「エロシーンスキップしたエロゲーはギャルゲーと何が違うのか?」という疑問である。
 エロシーンスキップの有用性を認めない場合、アダルトシーンが存在すればエロゲー、存在しなければギャルゲーと分類されることから、アダルトシーンの有無が本質的な差違であり、アダルトシーンの内容とその意味について着目していれば社会的考察として全く問題もなかった。
 しかし、アダルトシーン収集用のためのCTRLキーが存在する以上、エロシーンスキップは厳然として存在する概念であり、少なくとも一部のエロゲープレイヤーからは有用性を認められている概念である。
 それを裏付けるかのように、近年では人気の出ているアダルトゲームの多くが、追加要素とともにコンシューマーゲームに移植されている。コンシューマーゲームは風紀と教育の問題からアダルトシーンは強く規制されるため、このような移植が可能であることは、すなわち、アダルトシーンが作品の本質でない(少なくとも、制作側はそう考えている)ことが示される。
 これは、多くの場合、アダルトシーンを作品の本質に据えない限り、同様の精神的影響をもつ別のシーンに差し替えることが可能なためである。たとえば、恋愛上でのセックスシーンをキスシーンに、レイプシーンを傷害に変更する、などの操作を行う。逆に言えば、このような操作を実施できないゲームはアダルトシーンが作品の本質であり、コンシューマーゲームへの移植は事実上不可能であることを示している。
 例外として、Kanon名雪シナリオのように、単純に省略することで、セックスシーンの存在を暗示すること手法も存在するが、これについても「存在さえ明示できれば内容は省略可能」であることが言える。

5.2.4 まとめと考察:CTRLキーが予言し、経済が証明したパラダイムシフト
 ここでは、
・CTRLキーの使い方を観察することにより、アダルトシーンを本質としないエロゲーの存在可能性が示された
・実際、アダルトシーンを本質としないであろうゲームはそれなりに存在する
・アダルトシーンを本質としないエロゲーは、シナリオに対する多少の操作でコンシューマゲームに移植できる
 ことを述べた。

 おとボクは、2005年末にPS2に移植され、さらには2006年にアニメ化されていることから、アダルトシーンを本質としないゲームの一つとして、十分な証拠をもっているといえる。

「百合」の言葉を定義する ―― clarify “yuri” as a difference with “sho-jo ai”

2008年12月18日 木曜日

 本章は2008年5月より執筆を開始したものですが、「百合」への理解不足が原因で完成が遅れてしまったことを、まずお詫び申し上げます。

 さて、この間、本コラムを見ていただいた方の日記にて、次のようなコメントをいただきました。

『マリみて』は百合(恋愛物)でなく友情物である。 それの唯一かつ成功した模倣は『おとボク』って論。
友情物であるのは分かるが、それが即百合でないというのは 定義の問題か?
――TomOne の ねもと6月11日の日記より

 このご指摘はごもっともであり、本来では最初に解消すべき疑問点でした。
 しかし、「本題と少し遠い/非常に難しいから」と後回しにしていたことをお詫びするとともに、本章では、この問いに答えるべく、百合の「定義」についてじっくりと考察していきたいと考えています。

5.1 百合論 ――百合とレズは何が違う?
 web上で「百合」を扱う論説では、「百合」と「レズビアン」の区別は明確に存在しているとされる。しかし、私は寡聞にしてその差を定義している論説にお目にかかったことはない。百合とレズビアンの差を語るサイトは多くあるが、ケーススタディに耐えうるだけの頑健さを持つだけの論理性を持たず、それゆえ、これらの差の定義に失敗している印象しか残らない。
 一つの言葉は多数の意味を持ち、その解釈は人によって多種多様であることは言うまでもない。しかし、言語の定義を自らの感覚のみに任せ、自らの用いる単語の定義を示さないことは、言葉の曖昧さに対する責任をすべて読者に押しつけることとなる。
 これは、読者のための論説としては致命的な失敗――あるいは、論者失格の烙印を押されるべき傲慢――と言える。
 したがって、まずは私なりに、「百合」という言葉を再定義することから始めたい。

 ただし、正しく定義するということは、それ自体が非常に難解であり、数多くの論者がこの点を曖昧にしたまま気がつかないことはある意味致し方ない部分もある。

なにかを定義するとき、属性を挙げて対象を記述することは比較的たやすい。しかし、対象の本質を明示的に記述することはまったくたやすいことではない。
――福岡伸一「生物と無生物の間」(講談社現代新書,2007)

 話の前提として、現在この二語についての現状を、私の視点から確認したい。
 「百合」と「レズビアン」の差について、現状統一した見解は存在していない。しかし、百合とレズビアンという二つの言葉について、厳然と区別している論者は多く存在している。
 もっとも多い区別としては、百合は精神的なもの、レズビアンは肉体的なものとする考え方である。要するに、性的関係を持った場合はレズ、持たない場合は百合とする分けかたである。
 また、これに関連し、レズビアン関係のもつ「女特有の執念」が存在しない同性愛が百合とされることも多い様子である。
 あるいは、単純に「二次元(アニメ、アダルトゲーム等)」を百合、「三次元(現実、あるいはアダルトビデオ)」をレズビアンと分ける場合もある。
 もちろん、最大の派閥は「百合」と「レズビアン」を全く同じものとして扱うものである。本稿でも、前章まではこの定義を採用している。しかし、この定義を採用してしまうと、百合論において、百合とレズビアンを区別する理由――あるいは区別する目的――が消えてしまうため、本章でこれを採用することはできない。

5.1.1 百合の再定義 ――甘酸っぱければそれでいい
 百合という言葉を再定義するにあたり、「乙女はお姉さまに恋してる 櫻の園のエトワール」(以下エトワール)の感想文のなかで、注目すべき一節を引用する。

お嬢様学校で百合モノという幻想を恥ずかしげも無く形にしたものです。
(中略)
ただガチな百合モノというよりはどちらかと言うと、女子同士の甘酸っぱい先輩後輩って感じでした。
――masa-no-ji、「空の灰皿」記事 [ライトノベル]『乙女はお姉さまに恋してる』読了より

 これは、エトワールは百合ではないとする感想であるが、そのいっぽう、同書は百合の傑作とする感想も多い。未定義語である「百合」か否かの議論は横に置くとして、ここで注目すべきは、「甘酸っぱさ」というキーワードである。
 作品世界におけるキャラクターの感情をなぞったときに、甘酸っぱさを感じるか否か。百合の名作と名高い(が、私は第1章で百合ではないとしている)「マリア様がみてる」シリーズ(以下マリみて)においても、「先輩後輩の甘酸っぱさ」を感じさせる表記は数多く、また、「友人関係の甘酸っぱさ」も同様である。

 したがって、本章では、百合を「甘酸っぱさを本質とする女性同性愛」、レズビアンを「甘酸っぱさを本質としない女性同性愛」と定義する。

 この定義は、「性的関係の有無」、「女特有の執念」、「二次元/三次元の区別」などの区別を大まかには含むこと、ただし完全には含まないことに注意する。性的関係をもつ人間関係は多くの場合、甘酸っぱさを感じる人間関係よりずっと近い距離にある。独占欲に支配された後には、葛藤により生まれる甘酸っぱさは存在できない。また、現実世界で甘酸っぱさを感じるのは恋愛をしている当人だけであり、性的交渉を主眼とするアダルトビデオに甘酸っぱさを取り入れるには冗長が多すぎる。

 さて、マリみてやエトワールが「百合でないのに百合と評価される」ことについて、以下の推論が成り立つ。
 1. 友情や先輩後輩の近しい関係は甘酸っぱさをふんだんに感じさせる。
 2. 女性同士の近しい関係性である。これは、女性同性愛を示唆するような誤読を招く。
 3. 1.および2.より、「女性同士の近しく甘酸っぱい関係」を「甘酸っぱさを本質とする女性同性愛」と取り違え、百合と解釈してしまう誤読を招いている。

 この誤読は、第1章に述べた「百合ではない」が「百合としてみることが可能」な解釈にあたる。

5.1.2 百合の公理系 ――甘酸っぱさって何なんだ?
 さて、上記の「甘酸っぱさ」という言葉について、定義を与える必要がある。
 百合論における甘酸っぱさを定義するにあたって、一度辞書より定義を引く。

あまずっぱ・い 5 【甘酸っぱい】
(形)
(1)甘みと酸っぱみとがまじった味やにおいである。
「―・いパイナップルの香り」
(2)こころよさに少し悲しみを伴った、やるせない気持ちである。
「―・い初恋の思い出」
[派生] ――さ(名)
(三省堂 大辞林第二版; goo国語・新語辞書より)

あまずっぱい 甘酸っぱい
sweet and sour; tart.
・〜青春の思い出 bittersweet memories of one’s youth.
(三省堂 EXCEED 和英辞典; goo和英辞書より)

 このとおり、甘酸っぱさの語そのものは、恋愛と直接結びつく定義ではない。ただし、用例としては恋愛や青春といったものに多く用いられている様子である。

 ここから、甘酸っぱさについて、考えていく。
 やるせなさと書かれているところから、甘酸っぱさ人間関係を示す語であることは明白である。また「悲しみ」とある点から、近しい関係であることもわかる。すなわち、甘酸っぱさとは恋愛や友情など、近しい人間関係に適用される語である。辞書を見ると、甘酸っぱい、という語には初恋や青春などの例が引かれていることからも、納得できよう。

 このとき、甘酸っぱさについて二つの意味を見いだすことができる。
 (公理系A)甘酸っぱさとは、青春を構成する人間関係における複雑な感情を示す。
 (公理系B)甘酸っぱさとは、恋愛を構成する人間関係における複雑な感情を示す。

 いちど、百合の定義を少し広げて、「甘酸っぱさを本質とする女性間の人間関係」と再定義し、これを広義の百合とよぶ。
 確認まで、本章では百合を「甘酸っぱさを本質とする女性同性愛」と定義している。以降、これを狭義の百合とよぶ。
 広義の百合の定義を用いて、公理系Aを用いて意味を解釈すると、「青春としての女性間関係」となり、これは狭義の百合とは一致しない。この意味を用いると恋愛ばかりでなく友情や近しい上下間関係なども本定義に吸収されることから、百合とレズビアンは明確に異なる意味を持つ。通常用いる「青春」との差違は、人間関係に男性を含むか否か、として明確に分離できる。
 同様に公理系Bを用いて解釈すると、「恋愛としての女性間関係」となり、狭義の百合と意味が一致する。このとき、レズビアンとの差は「複雑な感情」の有無にとどまるが、近しい人間関係はそもそも複雑な感情を持つのが一般的のため、レズビアンとも意味が一致する。

 次章では、公理系Aを用いて再定義した百合を「青春としての百合」、公理系Bを用いて再定義した百合を「恋愛としての百合」とよぶ。
 このとき、百合・レズビアン対比論を含む百合関連の論説においては、百合を「青春としての百合」に、一般的な文脈においては、百合を「恋愛としての百合」に定義づけている、と推定できる。
 もちろん、「恋愛としての百合」は上記の通り「レズビアン」と同じ意味をもつ。

5.1.3 百合の定理系――実例で考える
 以上で話のほとんどは終わりであるが、定義ばかりで退屈された読者も多いと思う。
 そんな、「だから何?」の声にお応えして(←いつアンケートとったよ?)、この定義で説明できることの一部について、例を挙げて説明していきたいと思う。

 (例1:マリみては百合か?)
 第1章に提示したとおりマリみては友情を中心とした人間関係を描いているため、「青春としての百合」であればYES、「恋愛としての百合」であればNOという結論を得る。
 本章以外において、本論説は百合を「恋愛としての百合」と定義し論述しているため、論説全体における不整合は存在しない。また、マリみてを百合の金字塔と定義している各種論説も、百合を「青春としての百合」に定義すれば整合する。

 (例2:おとボクは百合のようなものでいいのか?)
 第1章に提示したとおり、おとボクの場合、実性別に目をつぶれば「青春としての百合」「恋愛としての百合」の両方に当てはまる。このときに問題となるのは、瑞穂が男性である点だが、この点の対応も第2章・第3章で確認済み。

 (例3:ストパニを百合と定義したくない人々がいる)
 ストパニの場合、「恋愛としての百合」については問答無用だが、「青春としての百合」について疑問点が少し残る。この疑問点については、主要な人間関係を「擬似的な恋愛」として表現する同作品の性質から、青春としての価値観が損なわれている可能性について指摘することで疑問点を明白化できる。

 (例4:「百合」の議論が紛糾する理由)
 世の中で「百合」をめぐって議論が紛糾している理由については、上記の定義を比較すれば明らかであろう。複数の論者が同じ言葉を巡って、「恋愛としてOK」「青春としてNG」など、定義のすりあわせを実施することなく自前の理論を語り続けているのではきりがない。
 筆者の感触では、男性の場合は人間関係を重視するタイミングが成長の遅いタイミングであることから、恋愛と青春の共通点が少ない。このため、男女間の関係については、恋愛と青春の区別は比較的容易である。
 しかし、女性間関係の場合は早くから人間関係を重視し、人間関係のスキルを磨くことが重要であるため、人との親しいつきあいかたについてが青春の主眼となる場合が多いと推定される。このとき、友情と愛情の境界を考えるなど、青春と恋愛のオーバーラップが多く、また境目の曖昧さが問題となりやすいため、「百合」の用語定義がぶれやすい。
 蛇足ながら、この議論ではもちろん、初恋などの恋愛と青春を同時に兼ね備えたケースについては考慮の対象外である。

5.1.4 まとめ――感覚は、感覚によってのみ定義される
 本章では、次のことを述べた。

 (1)女性間関係の「甘酸っぱさ」として、百合を再定義した。
 (2)百合とレズビアンを同一のものと見る向きを、甘酸っぱさ=恋愛、の解釈に落とし込んだ。
 (3)百合とレズビアンを異なる用語と見る向きを、甘酸っぱさ=青春、の解釈に落とし込んだ。
 (4)(2)と(3)について例を挙げ検討した。

 これにより、百合という言葉の定義の差を明白とし、議論をわかりやすく整頓することが可能となった。
 なお、「青春」と「恋愛」の個別の用語定義について感覚による解釈の余地は残っているが、個人の認識が感覚によって成り立っている以上、定義の曖昧さはどうしても残る。
 ただし、典型例のみを示し定義を読者に委ねる方法に比べ、曖昧さの原因を追求し、簡潔な定義の中にそれを示していることで、「言葉の曖昧さ」に関する説明責任は果たしたと考えている。

4:百合? ヘテロ? だから何。 ―― you need not consider gender when you fall in love

2008年5月2日 金曜日

 さて、前章で述べたとおり、二次元の世界を抜けて、一度三次元の世界へ戻って議論を進めてみる。
 しかし、戻ってきたところで、実は現実世界の側も常識の推論は万能ではないことが分かる。
 では、極端にして深刻な例から一般的な例に向かって、少しずつ「性別」の意味の薄れについて議論していくことにしよう。
 そこには、現代社会と呼ばれる、科学という名前の魔法に満ちた社会がもたらす影響を強く読み取ることができる。

「進みすぎた科学は魔法と区別がつかない」――A.C.クラーク

4.1 区別のつかない性別――性同一性障害、仮性半陰陽
 ホモ・サピエンスという種は受精後、メスとしての体を持つ。そのうち一部は、男性ホルモンの影響でオスに分化し、残りは男性ホルモンの影響を受けずメスとしてそのまま育つ。詳しいことは専門のサイト池田クリニックより)をみていただきたいが、理解した後に考えるべきことがある。
 肉体、および、脳の性分化が決して一様ではないことは、上記サイトにて明らかと思う。すなわち、男性ホルモンという、「密度と効果にむらのありうる」化学的作用について、遺伝子の都合によって「量に差のある」男性ホルモンと、男性ホルモンの効果の「質に差のある」受容体が影響するというこの不安定な状況下、男性ホルモンの効果の差による性の「中間状態」が存在しうるのは十二分に考えられる。その証左として、性同一性障害や仮性半陰陽などが存在し、彼らが社会通念に苦しめられる事実を持ち出すのはたやすい。
 このような中で男女を区別する方法は、遺伝子がXX(or XXX)かXY(or XXY)で区別するのがもっとも確実な方法ではあるが、この方法でも問題は残る。たとえば、睾丸性女性化症候群の場合、身体的特徴が完全に女性であるにもかかわらず、遺伝子XYと睾丸を持ち男性として扱われなければならない、などの弊害も存在する。
 果たして、生物的に男女を厳密に区別することは可能なのであろうか。そして、例外に対して、区別の範囲外として存在を否定することは、許されるのであろうか。

4.2 労働の男女差は消えゆく――肉体労働から頭脳労働、そして感性労働へ
 男女差というものを考えたとき、男性の方が女性に比べて力が強いというのは、統計的に明らかである。しかし、現代社会における労働に必要なスキルを見回してみると、肉体的な差については無視してよい社会になりつつある。
 (違法な労働現場はともかくとして)肉体労働については、時代が進むごとに男女格差を考慮する必要が薄れつつある。男女格差の他に考えるべき問題として、障害者対応や定年後の再雇用などがある。つまり、肉体労働について不利な者を労働者として受け入れやすくする方策が必須であるが、この方策そのものが、若手・中堅の健康を維持する役割も担う。すなわち、無理をしない方策が危険回避につながるのだが、この方策は肉体労働の男女格差を埋めることにもつながる。整備された男性のみの職場に女性を招くことは、トイレ・更衣室の問題くらいしか残らない(もちろん、生理休暇など法的ルール整備の問題はあるが、それは職場の問題というより企業の問題である)。補足するが、ここでの肉体労働とは単純労働を意味しない。高度な経験と知識を必要とする肉体労働はいくらでもあり、それゆえ「経験と知識を持つ者/学ぶ者」を手放すことは企業戦略上許されない。
 そして、肉体労働の男女格差が埋まっていくとともに、社会ではサービス業(頭脳労働、感性労働)の割合が増えてくる。ここでの頭脳労働とはデスクワーク(研究、開発、事務など)、感性労働とは対人作業(営業、販売など)と定義するが、一般に両者に明確な区分はない。頭脳労働や感性労働は教育(専門能力、人間力)が鍵であり、真の意味で教育が達成されていることが労働の成否を決めるポイントとなる。教育の達成可能性とそのレベルおよびコストについて、統計的には男女差を認めるが、あくまで個人の能力と責任の範疇に過ぎない。
 さらに言えば、頭脳労働のうち、単純作業が本質のものについては、重複を徹底的に削除し、定型的作業を徹底的に自動化することで、頭脳労働や感性労働に関連するミスを低減し、より多くの人的リソースを創造的作業に割くことが可能となる(完全に定型的作業とされる労働の種別でも、新規プロセスの創造やプロセス改善・環境の変化への対応など、創造的作業の余地は多いことに気をつける)。
 そして、創造的作業の成否は個人の素質と経験に大きく左右されるばかりでなく、多面的な視点が必要となる。多面的な視点を確保するためには男女の差が必須となるが、これも「個人の経験」に含まれる事柄といえる。

4.3 確率は一瞬の運に対して無力――統計信仰の罠を抜け出せ
 さて、上に記した「個人差」であるが、基本的には「性差」より大きいものと考えるべきである。たとえば、男子は女子より柔道が強い、というのは一般的事実であるが、その辺の一般人を捕まえて、女子柔道金メダリスト「ヤワラちゃん」こと谷選手に柔道で勝てるかと言われれば、ほとんどの場合「ノー」であろう。
 これは極端な例であるが、男性と女性をランダムに一人ずつ抽出したとき、女性の方が男性より身体的能力が優れていることは、確率的には意外なほど高い。確率を数学的に計算するためのデータを持ち合わせているわけではないが、平均値の差を考慮した状態で頭の中で正規曲線を描くと、重なる領域が意外なほど大きい。
 もちろん、トップ同士、平均値同士を比較すれば、身体的能力において、男性優位はデータとして明らかであることに異論を挟む余地はない(もちろん、柔軟性など女性の方が身体的能力が高い場合もある。これを考慮する場合、以降の男女関係について適宜読み替える)。ただし、ある男性とある女性について、男性の身体的能力が平均より低く、女性のそれが平均より高いことは十分に考えられ、この場合に男性と女性の身体的能力の比較値が平均と逆の値を示すこともままある。したがって、直接的・肉体的な性的関係を除いて、男女の一般的な関係を固有の個人的関係に持ち込むのは危険といえる。まして、「常識」と呼ばれる概念が平均値のみを見て分散を考慮しない「統計信仰」の罠に引っかかっていることは、個人の能力を殺す「男女差別」の発生を助長しうる危険要素である。
 当然、この話は身体的能力に限らず、学力等計測可能な人間の能力すべてにあてはまる。また、統計については「統計採取時のゆがみ」を考慮し、補正する必要がある。たとえば、学校の成績の平均が「女子の方が高い」という事実が指摘されているが、これを直接「女子の方が頭がよい」と読み替えるのは危険であることは明白である。別のデータからは、「最難関大学への入学者数が男子の方が多いため、男子の方が頭がよい」という言い方もできる(言うまでもないが、これをもって「男子のほうが頭がよい」と結論づけるのも同様に危険である)。100点満点で平均点を60点としたテストを行えば、100点取得者は成績を過小評価されるし、平均点を10点としたテストを行えば、0点の取得者は成績を過大評価される。また、学習達成度をみる試験など試験範囲が狭い場合は単純暗記が有利、応用能力を測る試験など試験範囲が広い場合は基礎力と論理的考察力の高い側が有利、など、条件もさまざまである。
 このように、複雑な環境を「統計処理」という「読み方単純化ツール」を用いて処理する場合、ツールの性質を十二分に考慮する必要があり、信頼性のそれほど高くないツールが示した結果を鵜呑みにして、誤った「常識」を作り上げるのは愚の骨頂といえよう。

(補足)上記においては、統計の信頼性について否定的に書いているが、統計は「分散」「標準偏差」などの、自らの信頼性を評価するツールを備えている。統計の信頼性が低いとは統計データが自身に示している結果であり、結論の信頼性を自己評価できる統計学が、サンプルデータを集めて意見を述べるだけの学問より圧倒的に高い信頼性をもつ何よりの証左である。有用なツールほど、使い間違えると怖い結果が待ち受けていることを示す好例であろう。

4.4 生物学の社会性理論――恋愛は完全に個人の自由だ
 生物学の最新理論のひとつに、「利己的な遺伝子」という考え方がある。Wikipediaの「社会生物学」の項にあるとおり、「生命は遺伝子の容れ物に過ぎず、この世界は(生命ではなく)遺伝子による生存競争である」という考え方をベースに、「自己犠牲」「ライオンの子殺し」「癌の存在」など、今までの理論では理由の説明できなかった生物の行動学を解き明かしている。
 この中で特に重要なのは「真社会性」である。これは、「生殖を捨て、自らの属する血縁あるいは社会に貢献する」という自己犠牲の精神が、生物の生存戦略上正しいことを数学的に証明している。あいにくと私は専門外なので証明の数式を目にしているわけではないが、蟻や蜂といった、子供を生まない個体を多く抱える生物が隆盛を誇っている現状、この理論の正当性は保証されていると言って良いだろう。
 さて、自己犠牲について考えてみる。自己犠牲とは親が子に対して行うものが多いが、このとき、一人の子に対して、自己犠牲を行う親は多ければ多いほど、子の生存確率が高まることは容易に想像できる。このとき、社会の「働く層」と「子供を生む層」について、蜂の社会をお手本にした仮定のもと、計算を行ってみたい。

 m人の「子供を生む層」を定義する。一人の「子供を生む層」に対して、n人の「働く層」が存在する。子供を生む層は子供を生み育て、働く層は子供を危険から守る役割を果たす。
 社会全体がx人で構成されている場合、x=m×(n+1)である。
 今、仮にx=12とおき、(m,n)=(2,5)の場合と(m,n)=(6,1)の場合について考察する。
 前者の場合、それぞれの「子供を生む層」は6人の子供を生み、子供は5人の「働く層」が守る。このとき、それぞれの子供は、5÷6=0.83人によって守られている。
 後者の場合、それぞれの「子供を生む層」は2人の子供を生み、子供は1人の「働く層」が守る。このとき、それぞれの子供は、1÷2=0.5人によって守られている。
 すなわち、同じ12人を維持する場合、「働く層」による守護を手厚くするためには、「子供を生む層」の人数は少なければ少ないほど、また1人の「子供を生む層」は子供を多く生めば生むほど望ましいことになる。
 もちろん、この場合の最善策は(m,n)=(1,11)であり、12人の子供を11人で守る(それぞれの子供は0.91人に守られる)ことがもっとも望ましく、これは蜂の社会(ただ1人の女王蜂と、できるだけ多い働き蜂)を示している。

 さて、「子供を生む層」の考察はこれくらいにして、次はこのシステムにおける「働く層」について考察する。「働く層」に所属している場合、生物戦略上はひとつの制限が存在する。
 それは、子供を生んではいけない、という制限である。
 この制限は、「働く層」が「子供を生む層」に転化することは「働く層」の密度を低くするため、子供を守りきれなくなる可能性に直結するために存在する。その証拠に、蟻や蜂における「働く層」、すなわち働き蟻・働き蜂の個体はすべて、子供を生めないメスである。

 すなわち、社会とは役割分担であり、生殖活動もその例外ではない、ということである。

 人間についても同様であるが、ここで「働く層」がとりうる恋愛戦略について考えてみたい。
 すべての人間が「子供を生む層」に所属しようとする場合、一般に言われるように男女の恋愛が正常とされ、男性同士あるいは女性同士の恋愛は拒否される。また、恋愛に参加しない、という戦略も自らの遺伝子を放棄するだけの愚策と映る。
 しかし、先にも述べたとおり、社会性生物の「働く層」に生殖は必要ないことから、生殖活動の存在し得ない同性同士の恋愛は戦略上正しいものとして考えて問題ない。恋愛が結婚の前段階に過ぎない場合は「働く層はそもそも恋愛してはならない」が、お互いの心を安らげ豊かにするものであるとすると、働く層における恋愛は生産効率を高めるためむしろ推奨される。このとき、働く層における恋愛は異性間だけではなく、同性間においても推奨されることとなる。もちろん、読書や学問など、恋愛以外によって心を豊かにすることもできるため、恋愛の必要がない層も存在してよい。

 異性同士、同性同士、恋愛拒否、この三者がそれぞれ自由に振る舞い、異性同士の恋愛を選んだうちの一部がたくさんの子供を生み育て、社会全体でそれを守る。これが、本来あるべき人間社会であると思うのだがいかがであろうか。

 なお、蛇足ではあるが、本項には「子供を生む層」「働く層」の強制固定化を認める論旨は一切存在しない。生きる道の選び方はすべて各個の意思によって決定されるべきであり、本人の希望と適性と能力にふさわしい層に所属するべきである。本人の能力を殺す層に位置づけられ、尊敬されずに不幸な一生を送ることは、人権の観点からも社会性の観点からも許されることではない。

4.5 まとめ ――ここに生まれる一つの魔法
 ここまで、「性別の狭間に生きる存在」、「労働における男女差」、「性差と個人差の比較」、「社会性生物の生存戦略」の4つの視点から、性別と恋愛にかかわる常識を疑うための論述を行った。
 このような考察を行った理由は、前章に示した以下の論旨が現実社会に通用するかどうか、という思考実験であった。

二次元のキャラクターにおける「実際の」性別を考慮してやる意味は、実はほとんどなく、重要なのは、「可愛い」「美しい」など、個人の持つ性質である、という点が明確化されるためである。もちろん、これらの性質を兼ね備える者の多くは女性ではあるものの、すべての女性が持つ性質ではなく、また一部の男性が持つ性質でもある。

 前章では、二次元キャラクターにおける「女の子らしさ、かわいらしさ」に特化した考察であったが、本章ではより一般的な、生物としての人間の立場から考察し、より強い結論を導いている。
 すなわち、人間の個々が行う恋愛活動において生殖は本質ではなく、それゆえ性別は本質ではないという考えである。

 もちろん、このような考え方が発生するのは、生存における性差の必要性が極限まで吸収された科学万能の時代ゆえであるが、これは我々が生きている時代そのものであり、通用する常識が生物の1世代より圧倒的に速く変化するという、まさに前代未聞の常識が「科学技術」の名を持つ魔法によってもたらされていることを示している、と言えよう。
 なお、ここで語ったパラダイムシフトについていけるのはごく一部の限られた人間だけである。一般的に多様化した概念のすべてをフォローする必要はないし、できるはずもない。
 ただし、ある拒否反応がもたらされた際、その感覚が本能から来るものか、理性から来るものかは、あらかじめ明白に切り分けておく必要がある。理性すなわち常識で脊髄反射をする前に、自らの知識の限界を知り、知らないものについての的外れな批判を慎む。あらゆる場所で多様性が叫ばれる現代、このくらいの態度はそれこそ「常識」として持っておきたいものである。

 話を戻して、本章の指摘のように恋愛において性別が本質でないのであれば、BLも百合も、あらゆるセクシャルマイノリティでさえも普通の恋愛の範疇である。
 第2章から本章までかけて議論してきた結論を、もう一度示す。

「恋愛は心でする物であって、性別でする物ではありませんよ?」―― 十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)

3:「可愛い」は、女の子の特権じゃない ―― to be pretty is justice, even if the one is a boy or a girl

2008年4月22日 火曜日

 前章にて「『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと」の証明は終わったように見えるが、私は前章の記述だけで、この議論を終わらせるつもりはない。前章の視点からは、別の作品世界、生物学/社会学的視点、という二つの視点が欠けている。本章では前者を、次章では後者の視点から考えてみたい。

 前章まで、マリみてが百合ではない、おとボクの瑞穂ちゃんに性別は関係ない、として、マリみてとおとボクにのみ焦点を当てて考察を行った。本章では、一度おとボクを離れ、最近ブームになりつつある「女装少年」について考えてみたい。
 二次元の世界では、そもそも性自認の存在そのものを疑う風潮が出てきている。その証拠に、2ちゃんねるなどのコミュニティでしばしば言われる言葉がある。

こんなに可愛い子が、女の子の筈がない!

この言葉が何を意味するのか、いくつかの実例をサンプリングして考えていく。
 なお、本章では物語の核心にふれる事柄やネタバレなどが多いため注意する。

3.1 女の子は知っている。可愛い男の娘の魅力を。
 女装した少年は、少年としてのシンプルな性格と少女としての愛らしさを備えることで、男女それぞれが持ちうる「かわいい」魅力を並立することが可能となる。
 このとき、女装者に対し、一般的な「オカマ」のイメージ(アニメや漫画などで、それなりに年齢の高い男性でありながら似合わない女装を行い、またヘテロセクシュアルである主人公を同性愛の対象とみなす一部キャラクター; 要は「空気の読めない」人間のたぐいであり、実は現実の異性装・ホモセクシュアル・GID等とは一線を画する)を当てはめてしまうと、可愛い・可愛くないの議論のテーブルにあがる前に先入観によって排除されることとなる。
 しかし、この保守的な先入観を取り払うことで公平な視点を確保することでキャラクターの存在について正しく議論することが可能となり、新しいキャラクターの魅力を発見することにつながる。
 なお、タイトルの「女の子」とは、保守的な先入観を取り払った存在を象徴的に指す。先入観を持つのは比較的男性に多く、女性に少ない傾向があるためである(言うまでもないが、すべての男性および女性に当てはまるわけではない)。

3.1.1 プリンセス・プリンセス ――河野亨、四方谷裕史郎、豊実琴
 主人公「河野亨」は、転校して早々、生徒会業務として女装させられる。この生徒会業務は「姫」と呼ばれ、一般の生徒にとっての崇拝の対象として設定されるものである。
 そして、「姫」の働き次第で生徒のモチベーションが変化し、それぞれの部活動が残す成績に大きな影響があることは周知の事実である、本作品の特徴はまさにこの点にある。そして、姫の功績はやりがいとなり、亨と同じ姫である四方谷裕史郎、豊実琴の二人との友情を育むきっかけともなる。
 理事会すらもがこの活動を承認しており、好意的なものとしてとらえている(アニメの場合。原作は未確認)ことも特徴的。
 本作品は女性向けとして製作されたものではあるが、アニメとなったことで男女を問わず知られることとなった。以降、内容についてはアニメ版について語る。

 本作品は、前述の「姫」システム、すなわち「選ばれた可愛い人間による女装」が学校の伝統として定着していることから、女装に対するネガティブなイメージがそもそも存在しえない点がスタートラインとなっている。姫としての業務を通じて、河野亨・四方谷裕史郎の友情を描く物語の中で、狂言回しの役割を担うのが豊実琴である。
 作品世界の中で唯一、女装に対するネガティブなイメージを振りかざす彼もまた姫のひとりであり、この特性ゆえ姫の業務を始めると、見た目、性格ともにルイズ・フランソワーズ(ゼロの使い魔)同然のツンデレ美少女ぶりを見せる(もちろん、本人は姫の業務を嫌っているだけである)。
 もちろん、亨・裕史郎の両名もそれぞれの「姫」としての魅力を存分に発揮し、生徒たちを魅了していることは言うまでもない。

3.1.2 ニコニコ動画 ――Vocaloid KAIKO
 さて、いきなりではあるが、これは作品ではない。
 ニコニコ動画はニワンゴの動画投稿サービスであり、VocaloidはYAMAHAの商標である。また、KAIKOはKAITOの故意の誤植であり、KAITOはクリプトン・フューチャー・メディアの発売する、男声ボーカル・コーラス用のDTMソフトである。要は、「初音ミク」の男声版であると理解していただければ差し支えない。
 初音ミク人気の爆発とともに、初音ミクのシリーズである「MEIKO」「KAITO」らが見直されつつある中、「鏡音リン&レン」の発売により、ニコニコ動画および周辺サイトでは、Vocaloidシリーズを兄弟とみる二次創作の作品が相次いだ。話題は少しそれるが、それぞれのソフトウェアの特徴として、MEIKOはシンガーソングライター・拝郷メイコ氏に由来する味のある高音を特徴とし、KAITOは歌手・風雅なおと氏の持つ表現の広さを特徴とする。初音ミクは声優・藤田咲氏のアニメ声と操作性の高さを、鏡音リン&レンは声優・下田麻美氏の歌に特徴的な演歌調・舌足らずな表現による幼さを特徴とする。(このあたりは異論も大いにあると思われるが、私個人の感想ということでご容赦いただきたい)
 この潮流の中で、低音に強いはずであるKAITOの高音の響きに注目しているユーザーが数名いた。そのうちの一人が、当時初音ミクの3Dに用いられていた「らぶデス2」を用いて、KAITOに如月千早(THE iDOLM@ASTER)のコスプレをさせ「青い鳥」を歌わせた動画が、KAITOの女装である「KAIKO」の火付け役となった。KAIKOの名称自体も、「解雇」とのダジャレとなっている(偶然にも、同時期に別のユーザーにより作成された、「みっくみくにしてあげる」の替え歌である「解雇解雇にしてあげる」が人気を呼んでいた)。
 それ以来、KAITOの高音を「KAIKO」とし、KAITOの女装と定義する風潮が定着した。
 また、これによりMEIKOの低音を「MEITO」として、MEIKOの男装とする視点が発生している(MEIKO特有の味のある低音、という特徴的な声がまた一興である)。MEIKOとKAITOの低音・高音を逆転させ、MEITO&KAIKOとする作品も発生し、今後が期待される。
 なお、初音ミク・鏡音リン&レンについては、このような現象は(ニコニコ動画の上で、ネタ以外では)発生していない。

3.2 男性の、男性による、男性のための「男の娘」
 エロゲーの業界において、女装少年という存在は昔から細々と存在していたが、おとボクで一挙に注目され、はぴねす!で急速に発展・定着した。前述した「保守的な先入観」さえ取り払ってしまえば、ヒロイン至上主義であり徹底的な萌えを至上命題とするエロゲーに男性キャラクターを採用することが容易となり、描くキャラクターの幅が広がることは言うまでもない。
 そして、先入観はすでに取り払われた。ここでは、「おとボク」後の例をいくつかあげてみたいと思う。

3.2.1 恋する乙女と守護の楯 ――山田妙子
 まず紹介するのは、AXLより発売されたゲーム「恋する乙女と守護の楯」である。本作品は、おとボクの初期コンセプトであった女装&女子校潜入ラブコメディとしての性格を強め、またマリみて色を消すことで、より男性向けに近い作品となっている。
 主人公「如月修史」は、女学園に通う要人の娘二人を、それと知られず可能な限り近い位置にて警護するため、女学生「山田妙子」に扮し、女学園に通うこととなる。
 本作品に於いては、主人公は女装をし、女性として振るまいながら、男性としての知覚と思考を保ち、警護の仕事をこなす必要がある。とくに終盤では、一瞬でも気を抜いた瞬間にヒロインが暗殺組織に殺されるため、主人公に感情移入すると、平和なパートでさえ、危険のにおいを探す胃の痛みを感じつづけることとなる。
 ただし、第三者視点で平和なパートを眺めると、主人公がいかに可愛らしい容姿をしているか、また、それにより、ヒロインたちにどれだけ愛されているか、という事実を見るのはたやすい。
 この事実はソフトウェア制作側も了解済みなのか、2008年2月に発売されたCDドラマでは、如月修史のCVに釘宮理恵をあてている。彼女の役回りが「ツンデレロリ」の代名詞であることは周知の事実と思う(有名作品に、「灼眼のシャナ」のシャナ、「ゼロの使い魔」のルイズ、「ハヤテのごとく!」のナギなど)が、修史であり妙子であるという難しい演技を「鋼の錬金術師」のアルに似た声質で見事に演じ切っている。

3.2.2 はぴねす! ――渡良瀬準
 続いて紹介するのは渡良瀬準。彼の存在は女装少年の地位を一挙に高め、女装という概念をサブカルチャーとして確立するに至った。
 うぃんどみるから発売されたこのゲームにて、渡良瀬準は、主人公の親友として登場する。にもかかわらず、4人のヒロインと2人の隠しヒロイン、2人のサブヒロインと比較して、圧倒的な人気を見せつけることとなった。
 簡単な証拠としては、mixiコミュニティへの参加人数(本稿の数字は2007年12月25日現在)を見ていただくと早い。作品のコミュニティとして、はぴねす(でらっくす含)1194人、はぴねす!りらっくす641人、アニメはぴねす318人。メインヒロインおよび隠しヒロインの人気は、春姫597人、杏璃837人、小雪281人、すもも358人、伊吹391人、沙耶135人となっている。
 これに対して、準コミュニティの参加人数は2075人と、群を抜いて多いと言わざるを得ない。
 また、これと呼応するかのように、2006年4月に行われたWindmill Festivalにおいては、15サークルすべてがはぴねす!を、うち12サークルが準を取り扱っている。この中で、準を主人公orヒロイン格とする作品を発表したサークルは7サークルに上る。
 これにとどまらず、準オンリーイベントが2007年3月、9月の2回開催され、ともに盛況に終わっている。メインヒロインですらないキャラでこれほどの待遇を受けたのは、With Youの伊藤乃絵美以来ではないだろうか(見落としがあったらごめんなさい)。

 参考まで、通常エロゲーにおいては、主人公を中心とする男性群は、主人公・ネタキャラ・ライバル、の三名であることが主である。もちろん、ゲームによってライバルやネタキャラの増減はあるものの、モブ(群衆)に属さない男性キャラクターはこのパターンに帰着されることが多い。通常のストーリーにおける「いじめられキャラ」は、エロゲーの文脈においてはたいてい主人公またはヒロインに属する。
 すなわち、渡良瀬準は、主人公のライバルキャラとしての文脈に属するが、この文脈からの行動が、オカマキャラ特有の強力な個性を発揮する。この個性とは、「主人公いじり」と「的確なアドバイス」である。
 ただし、ライバルキャラとして持ち合わせていたこの特性が、準のオカマキャラとしての特性と組み合わさることで、準には「お姉ちゃんキャラ」としての性格、すなわちヒロインとしての性質を持ってしまった。これは、はぴねす!体験版を公開した時点でうぃんどみるが認めた失策であり、これに対する回答は、ファンディスクにて準を正ヒロインとして昇格させるほかにはなかった。「はぴねす! りらっくす」に収録されている作品の一つ「ぱちねす!」において、主人公の小日向雄真は、すべてのヒロインに囲まれてうはうはな世界を経験したにも関わらず、ヒロインの誰一人も選ばずに準を選んだ。

3.3 反論:先進的な概念は共有されない ――はなマルッ!、PiaキャロG.O.
 さて、上記ばかり見ていると、可愛い女装少年について肯定的な見解ばかりととらえられるが、もちろんそんなことはない。当然、反発されるキャラクターも存在する。
 その反発が特に顕著であったのは、「はなマルッ!」のヒロイン桐嶋菫、および、「Piaキャロットへようこそ!!G.O. 〜グランド・オープン〜」のヒロイン姫川かずみの2名である。ともに性同一性障害を患う男性であるが、本人シナリオに入らない限り分からないため、プレイヤーの間では「気持ち悪い」「ダマされた」といった声が飛び交うこととなった。
 この2作品共通の問題として、作品紹介、あるいはゲーム序盤の共通部分にて、性同一性障害であることが示されないことが理由として言われている(該当作品をプレイしたことがありませんので、私が作品の評価を行うことは不可能です)。この理屈を適用すると、前項までに示した女装キャラはすべて、作品の序盤以前に男性であることが判明していることが分かる。
 ただし、性同一性障害は本人の心と体に関わる問題であり、序盤の共通ルートで明示するには重い問題である可能性も否定できない。この意味では、性同一性障害という深刻な問題を取り扱うほどには、エロゲー――あるいは、物語――というプラットフォームは進化していないのかもしれない。

3.4 まとめにかえて:バーチャライぜーション ―― 例題から見えるもの
 本章で示した女装少年が受け入れられる/受け入れられない、の議論の前に、一点考えてみるべきことがある。もし、彼らが普通の女の子で、性格も境遇も作品内の立場も同じだった場合に、果たしてどうなるか。
 もちろん、ありえない仮定にすぎるが、思考実験として考えてみるべき要素ではある。この思考実験における注意は、性格・境遇・立場を一切変更しない点にある。たとえば、姫川かずみを女性とした場合、単純な設定変更では性同一性障害による悩みが存在しなくなる、すなわち境遇や立場が大きく変わってしまう。この点を考慮しながら、性格・境遇・立場を可能な限り変更しないためのロジックを別に持ってくる必要がある(たとえば、逆の意味での性同一性障害で悩んでいる、など)。
 私が出した結論としては、瑞穂と妙子に恋愛要素およびそれに伴う“力”が消えるだけで、その他特に変わるところはないように思う。菫、かずみの両名についても、「メンヘル女うざい」(注:メンヘルとはメンタルヘルスの略で、心の病を来している人間を指す。この利用例の場合、それを転じて非常識な行動・言動を行う人間への蔑称として用いる)との感想を抱くに過ぎないと思われる――こちらは、ゲームをプレイしていないが故の推測に過ぎないが。

 この、やたらと難しい調整を必要とする思考実験で、要するに何が言いたいのか。
 この思考実験により、二次元のキャラクターにおける「実際の」性別を考慮してやる意味は、実はほとんどなく、重要なのは、「可愛い」「美しい」など、個人の持つ性質である、という点が明確化されるためである。もちろん、これらの性質を兼ね備える者の多くは女性ではあるものの、すべての女性が持つ性質ではなく、また一部の男性が持つ性質でもある。
 顔も性格もスタイルも最悪の女性と、少女と見まごうばかりの美しさと器量の良さを兼ね備える美少年。夢を見るために仮想化された世界の中で、わざわざ前者を選んでやる理由はどこにもない(もちろん、前者を選ぶ人がいても良い。好みは十人十色なのだ)。

(2) 男なのにお姉さま、男女の恋愛なのに百合? ――see the boy in a viewpoint of yuri, or shojo-ai

2008年3月7日 金曜日

 続いては「『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと」の証明だが、先に着地点だけ宣言しておこうと思う。

 「恋愛は心でする物であって、性別でする物ではありませんよ?」―― 十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)

では、この結論に至る議論を、まずは、マリみてとおとボクの中だけで閉じる議論として行いたい。

 前章で述べたとおり、おとボクはエロゲーである。すなわち、主人公は男で、ヒロインである女の子と結ばれなければ話が成り立たない。しかし、この作品は男であるはずの主人公=プレイヤーに、徹底的に女の子であることを要求する。

 議論に入る前に、おとボクの設定を簡単に復習する。
 主人公・鏑木瑞穂は、鏑木財閥の御曹司にしてマルチかつパーフェクトな才能の持ち主。祖父の遺言がもとで、亡き母の母校である聖應女学院(PC-CD版では恵泉女学院、PS2版では聖央女学院)に、女学生として編入することになった。
 瑞穂のサポーターとして、入学を許可した学院長のほか、幼なじみの御門まりや、担任の梶浦緋紗子、瑞穂の女装を唯一見破った十条紫苑がいるが、それ以外の生徒・職員らには一切正体がばれてはいけない。瑞穂が男とばれた瞬間、聖應女学院を含む多くのグループ企業が風評により倒産、多くの従業員が路頭に迷うこととなる。
 そして、瑞穂は同じ遺言から、寮住まいとなり、まりやの他、上岡由佳里、周防院奏の二人の後輩と生活を共にすることとなる。もちろん、彼女たちにも性別がばれてはいけない。特に、奏は瑞穂のお世話係として、長い時間を共に過ごすこととなる。
 女性になりきる生活に四苦八苦しながらも、高い能力と人格のすばらしさを発揮した瑞穂は、転校間もないながら、聖應女学院の見本として「エルダーシスター」に選ばれる。このとき、堅物の生徒会長・厳島貴子より転校生を理由として反対意見が出されるが、即座に却下される。
 以降、瑞穂はエルダーシスター、すなわち理想の女性として学院生活を送ることを余儀なくされる。全校生徒の注目を集め、それでも男とばれないように。

2.1 女性たれ ――男性ゆえ「男性としての性自認」が排除されるシステム
 瑞穂は物語の中で、二十四時間、徹底的に女性として振る舞うことを義務づけられている(寝室はおろか、トイレですら例外ではない!)。この義務には、誇張なしに、人ひとりの命より重い責任がある。そのため、瑞穂は自らを女性として認識するように、徹底的に自己洗脳を施す。

「あわわっ…お、女の子女の子……私は女の子なんだから……っ………!」――宮小路瑞穂(処女はお姉さまに恋してる)

そして、周囲の反応も「宮小路瑞穂お姉さま」を賞賛するものばかりである。
 すなわち、宮小路瑞穂は、男性でありながら男性として存在することを許されず、また女性であることに対して強く賞賛される。

「女性の鑑のような方ですのね!」――一般生徒(処女はお姉さまに恋してる)

一瞬たりとも男性と認識されてはならない瑞穂は、複雑な胸中ながら、その評価に反発することは許されない。

「………きっとニュー瑞穂にもうすぐ生まれ変わるのよ。放っておきなさい」――小鳥遊圭(処女はお姉さまに恋してる)

 上記の考察におけるポイントは、「一瞬たりとも」男性としての性自認を持つことが許されないという点。エルダーシスターという立場により、学校内はおろか、寮内・町中でさえ、気を休めて男性でいられる瞬間を作ることが許されない。男性としての性自認を取り戻した瞬間、瑞穂には女装して学院潜入した変態とのレッテルが貼られる(だけならかまわないが、企業グループのトップに対するこの風評が、きわめて多数の人々の生活に影響が出るのは前述の通り)。瑞穂に残された男性としての責任感すら、瑞穂自身に女性でいることを求めているのだ。

 そして、おとボクにおいて物語を楽しむということは、主人公に感情移入するという意味であり、作品レビュー等感情移入なしに外面的な構造から分析を試みたとしても、それは的外れの評論を生むための、単なる苦痛でしかない。

それはまったくもって「苦痛」でしかなかったのではないか、と私は思います――takayan(おとボクの萌え構造 補遺・その1

 感情移入に成功した男性プレイヤーは、少なくともこのゲームをプレイしている限りは瑞穂と同一存在と見なすことが出来る。つまり、一般男性であるプレイヤーすら、女性としての性自認を持たされてしまうのだ。
 男性としての性自認を持っている人間が、簡単に女性としての性自認を持てるわけがない。この反論は一般的には当然のものであるが、上記考察を振り返ると、この反論を封じる二つの根拠がある。一つは、ゲームをプレイしている間に限られる点。女性としての性自認を持つのは、物語として瑞穂に感情移入している間だけでよい。もう一つは、男性としての責任感が強制している点。瑞穂は、祖父の遺言という「男同士の約束」を果たすために編入し、そして男バレがグループ経営に多大な影響を及ぼす。つまり、瑞穂が女性としての性自認を持つのは、このローカルな環境における「男としての責務」なのである。

2.2 女の子の世界 ――おとボクの立場からマリみてとの類似性を探る
 さて、続いては、前章で述べたおとボクが「マリみてのパクリ」と称される理由について、おとボクの立場でもう少し観察したいと思う。

 マリみてに特徴的なのは姉妹(スール)関係であるが、それに限らず女の子同士の友情がキーワードとなっているのは前章で述べたとおり。そして、これらを構築するための要素は、おとボクにも存在する。ここでは、要素分解を行うために、マリみてとの対応付けを行うが、作品が違うことから完全な対応はとれないことに注意されたい。

2.2.1. 瑞穂を二条乃梨子の立場にみる場合
 瑞穂は外部編入生という異質な立場でありながら、その類い希なる能力を用いて、急速に学院になじんでいく。この様子は一貫校であるリリアンに外部受験し、アウトローの立場から白薔薇のつぼみとなり、学園になじんでいった乃梨子と立場を同じくする。
 御門まりや:瑞穂を入学させ、入学後の瑞穂を導く。しかし、いつしか立場が逆転し、瑞穂に導かれる立場となる。このことから、まりやは松平瞳子と立場を同じくする。
 十条紫苑:瑞穂の正体を看過した後、御門まりやとともに、入学後の瑞穂を導く。また、将来への悲観から人を遠ざけていたところ、瑞穂の力により周囲に心を開くことに成功した。このことから、紫苑は藤堂志摩子と立場を同じくする。

2.2.2. 瑞穂を福沢祐巳の立場に見る場合
 また、瑞穂はその人柄をクラスに受け入れられ、級友達とも良い関係を築き上げる。これは、福沢祐巳が山百合会に飛び込み、築き上げてきた人間関係に近い。
 十条紫苑:よく言えば高貴な、悪くいえば近寄りがたい、人を遠ざける雰囲気を元々持ち合わせていた。前述したとおり、瑞穂の力によりその雰囲気を和らげ、周囲とのコミュニケーションを正常化できた。福沢祐巳の影響を受け、成長著しい小笠原祥子の立場としても見ることができよう。
 また、別の視点もある。六万円のパッドに釣られて(あるいは、釣られたふりをして)瑞穂とスキンシップを取ろうとする様子は、佐藤聖のそれともたとえることが出来る。
 小鳥遊圭・高根美智子:ストーリーには絡まないものの、瑞穂の級友として、そしてアドバイザーとして良い交流をかわす。性格や手法こそ全く違うものの、積極的な影響を与えに行く圭は島津由乃の、ゆっくりと待ち的確なアドバイスを与える美智子は志摩子の立場として見ることができる。

2.2.3. それ以外の関係性
 さて、上記に出ていない主要キャラクターは、厳島貴子、周防院奏、高島一子、上岡由佳里の4名。では、彼女たちをどう解釈すればよいのか。

 まず、厳島貴子であるが、マリみてにはそもそも対立構造が存在しないため、貴子のキャラクターがもたらす主要構造である「対立構造をぶちこわす」演出がマリみてでは不可能。したがって、瑞穂と貴子の関係に類似する関係は、マリみてには存在しない。もっとも、おとボクでもこの対立構造は本質的意味がなく、貴子の堅物キャラ(エルダー選挙)や嫉妬心(十月革命)を描くためのツールに過ぎない。この意味では、山百合会(祐巳)と新聞部(真実)の関係になぞらえることも不可能ではないが、これは牽強付会か。

 続いて、周防院奏であるが、一般的に瑞穂と奏の関係がもっともマリみてらしいとされる。奏は瑞穂のお世話係すなわち「妹」として瑞穂とともに行動し、瑞穂は奏を指導する立場すなわち「姉」として奏の行動に責任を持つこの構造は、マリみての姉妹制度そのものである。ただし、瑞穂と奏の姉妹においては、奏から瑞穂への影響や知識の伝授も少なくないことに注意する。この意味で、瑞穂と奏の関係は、マリみてにおける祥子と祐巳の関係に近い。
 なお、参考まで、主要キャラの在学期間(判明分)は、まりや・貴子・美智子>奏>(壁1)>圭>(壁2)>由佳里>瑞穂、となっている。

 高島一子についても、基本的には奏と同じ立場・関係性である。ただし、一子の場合、瑞穂を男性と認識しているため、マリみてのような「姉妹関係」の匂いは薄いため、関係性を学園の外、すなわち祐巳と祐麒の関係におく(祐麒は祐巳に対する良いアドバイザーとして働くことが多い)。

 最後に、上岡由佳里であるが、実は瑞穂との直接的関係は、同じ寮に住んでいる下級生という包括的なものだけである。ゆえに直接的に明示できる関係は存在せず、瑞穂と菅原君枝の関係同様、「友達の友達は皆友達だ」のような関係性となってしまう。もちろん、お互いの努力と相性によって、それが良い関係に発展することも多い。当初段階では、マリみてにおける祐巳と内藤笙子の関係、あるいは由乃と瞳子の関係が比較的近いか。
 また、キャラクター単独として瑞穂と由佳里を比較した場合でも、積極的な誰かにいじられることで光るおとなしい性格が共通していることも、直接的な関係構築を難しくしている(ゲームにおいては、瑞穂の成長によりこの難題を解決している。瑞穂の成長物語としての一面が強く表れる場面の一つでもある)。

2.2.4. まとめ ――友情を育むための仕掛け
 以上のように、マリみてとおとボクでは舞台装置ばかりでなく、人間関係まで似ていることが発覚した。また、マリみてになくおとボクに存在する要素として、ライバル(貴子)があるが、対立軸を造ることで強い友情を、それを壊すことで広い友情を手に入れることができる。
 上記では考察を省略したが、ヒロイン同士の関係性においても、マリみてに類似の関係は多く存在する。
 マリみてでは時間をたっぷりかけることで友情を育ててきたが、おとボクでは時間が不足しているため、友情を育てやすいイベントの構造をとる。これの善し悪しについては意見は多くあると思うが、本章の主張から離れるため議論を避ける。
 では、恋愛についてはどうなのだろうか。次からの三節において、恋愛についての考察を、いくつかの立場から行う。

2.3 異性愛という祝福 ――厳島貴子、高島一子
 まずは、一番わかりやすいところから。男女の恋愛を正とし、女性同士の恋愛を見ることが出来ない場合について考える。

 貴子においては、瑞穂に恋したと自認する頃から、女性同士の恋愛に関する異常性について思い悩んでいた。そんなときに、瑞穂が男性であることを知り、自らの感情が正常であると認識する。その後、いわゆる「デレモード」の状態では、行き過ぎた甘えと嫉妬、そしてそれに対する反省が行動の主軸に置かれる。そこでは、瑞穂をただひたすらに男性として見る視点ばかりが存在し、瑞穂がそれを咎める場面すら存在する。

「ここは女子校で、私は女生徒なんです……女の子と話している度にこれでは、身が保ちませんよ……?」――宮小路瑞穂(処女はお姉さまに恋してる)

 また、一子においては、幸穂の婚約に対する言い訳が同性愛への見解に否定的影響を与えた様子がある。

「そうね、私が男だったら、一子ちゃんをお嫁さんに出来るのにね」――宮小路幸穂(処女はお姉さまに恋してる)

そして、ありえないはずの「男性である宮小路幸穂」が、幸穂の息子という形で実現してしまった。もちろん、原作Interlude以降は一子も瑞穂をそのままの姿で見るわけだが、ノーマルエンドでは、自らを性欲処理のツールと宣言する一幕も存在し、瑞穂のことをずっと男性として見ていたとの解釈も可能である。

「わ、私を…その……えっちな本代わりになさって下さいませんかっ?!」――高島一子(処女はお姉さまに恋してる)

 貴子・一子のどちらにせよ、瑞穂が男性であるという事実が恋愛の推進に主要な役割を果たし、瑞穂とプレイヤーは男性としての性自認を取り戻す(それが危険なことであるにもかかわらず!)。
 この二つのシナリオは、サブキャラがそれほど生きない点が特徴となる。通常のエロゲーにはごく普通のことであるが、他のヒロインのシナリオと違い、マリみてに近い「女の子の広い友情」が全く効いてこない。
 これを逆読みすると、貴子・一子は、まっとうなエロゲー/ギャルゲーの構造を残した数少ないシナリオである、ということが分かる。このため、貴子と一子の人気の高さについての説明はきわめて容易である。

2.4 異性愛という原罪 ――周防院奏、上岡由佳里
 続いて、人気の意味で報われないヒロインの二人である。シナリオのレベルは高いと評価されるも、瑞穂に感情移入すればするほどプレイヤーの受ける傷が深くなるのがこの二人のシナリオである。

 奏シナリオにおいては、瑞穂と奏は何度も肌を重ねる(少なくとも4回、3回目が「幾度となく」のうちの1回とされているため、実際は遙かに多い回数と推測される)が、奏に対して瑞穂が性別を明かすのは最後の1回である(!)。それまでの間は、瑞穂が隠している秘密が重くのしかかる「レズ行為」であり、そこで育てているのは「女の子同士の恋愛感情」である。必然、瑞穂の心中は穏やかでなく、幾度となく罪悪感に押しつぶされそうになる。そして、瑞穂の抱える罪悪感を、奏は自らのわがままという形で解放する。

「それでも…それでもお姉さまは、自分の嘘が許せなくて、奏を捨ててしまうのですか………?」――周防院奏(処女はお姉さまに恋してる)、瑞穂の告白を受けて

 いっぽう、由佳里シナリオにおいては、瑞穂の男バレが最悪のタイミングでやってくる。女の子同士で結ばれる直前、キスした直後。その後、第8話のクライマックス直前まで、由佳里はその事実に苦しみ続け、相談するべき相手が誰も由佳里の言葉を肯定しない(それもそのはずで、由佳里の気持ちは瑞穂の全肯定であり、由佳里の言葉を肯定した瞬間に由佳里の気持ちを否定するパラドックスが待ち受けている)。このとき、精神的に追い込まれている人間の言葉に少しでも否定要素を持ち込むことは、その人の全否定を意味するため、状況と本心が真逆を向いている由佳里を完全肯定することは論理的に不可能である。

「どうして……どうして私があんな事云われなくちゃいけないの?!」――上岡由佳里(処女はお姉さまに恋してる)、紫苑の助言を受けて

そして、由佳里がとった気持ちの整理方法は、瑞穂を好きという気持ちで、性別という欠点を捨て去ることである。

「はい……だって、瑞穂さんは瑞穂さんで……ここに、この世界にたった一人しかいませんから……だから、瑞穂さんが女の人でも、男の人でも……へんたいさんでも、いいです……だって…大好きだから………」――上岡由佳里(処女はお姉さまに恋してる)

 奏と由佳里の二人のシナリオに共通することは、瑞穂が男性である事実が、恋愛の成就への大きな障害となっている点である。
 正確には、真実の障害は瑞穂の性別ではなく、ヒロインに対して「嘘を付いている」点である。しかしながら、(1)瑞穂が男性であるがため嘘をつき通す義務が課せられている、(2)「嘘を付いている点が真の障害」と気がつくまでに時間が掛かる、の2つの理由から、瑞穂が男性であることは恋愛成就の障害と言って差し支えない。
 由佳里の場合はヒロインの拒絶という形ゆえわかりやすいが、奏の場合は主人公の持つ罪悪感が障害となっている。どちらにせよ、瑞穂が男性である事実が、恋愛で乗り越えるべき最大の壁として立ちはだかるのだ。

2.5 弁証 ――御門まりや、十条紫苑
 瑞穂が男性であることに関して、2.3節では肯定の立場で、2.4節では否定の立場で描かれるシナリオをヒロイン二人分ずつ見てきた。では、残りの二人はどのように解釈すればよいのだろうか。
 他のヒロインとの差別化ポイントとして、この二人はシナリオが始まる前から瑞穂を男性と知っていることが挙げられる。

 まりやシナリオにおいては、作品内作品の映画「ウェービング・ストーリー」で外国に旅立つ男に、ついていく女と残る女を象徴的に描いているところ、エンディングにおいては、ヒロインであるまりやを外国に飛ばし、瑞穂は国に残ってひたすら待つという、物語テンプレートでの性別役割を逆転させている。そこに至るまでの過程として、瑞穂を「かわいいけど情けない男の子」から「心の底から格好良い男の人」に成長させ、さらには完全に男女の関係として結ばれたにもかかわらず、である。また、「やるきばこ」に収録された追加シナリオ「卒業旅行に行きましょう」では、まりや×由佳里のレズシーンが存在することから、まりやが性別を気にせず、個性を気にするタイプの人間であることも推測できる(注意として、まりやと絡むときの由佳里は「かわいいけど情けない女の子」として、初期の瑞穂にかなり近い性格を持つ)。

「そうだね、あたしは女で、瑞穂ちゃんは男で……でもね。あたしは、瑞穂ちゃんとそういう関係にはなりたくないんだ」――御門まりや(処女はお姉さまに恋してる)

 紫苑シナリオは、おとボクで最初の追加シナリオと呼ばれることもあり(根も葉もない噂ではあるが、企画段階では紫苑シナリオは存在しなかったとの話も聞こえている。これを示すかのように、同ブランド「うつりぎ七恋天気あめ」においては、幼なじみの女の子「天矢鮎乃」をメインヒロインとするシナリオは存在しない。また、「シャマナシャマナ〜月とこころと太陽の魔法〜」のヒロイン「ラビ・ロス」をメインヒロインとするシナリオは、「やるきばこ」のシナリオとして後に追加されたものである)、シナリオのクライマックスは伏線に満ちている。単語だけ並べれば、「鏑木家」「キリンの消しゴム」「厳島家」「病気」「奨学生」「修身室の鍵」「ドアの外」など、序盤や他のシナリオなどで使われてきた構図を多く見せている。当然、異性愛と同性愛についてのからくりも存在するのだが、瑞穂と紫苑のふたりをこの順番で、「男と女」「女と男」「男と男」「女と女」の関係すべてが描写されていることを以下で示す(ただし、恋愛関係とは限らない)。
 まずは、「男と女」の関係描写だが、物語序盤においては、学院に慣れない瑞穂の正体をいち早く見破り、導く役割を担う。物語終盤においては、十条紫苑という一人の女性を巡って、鏑木瑞穂と厳島兄はお互いを認識しないまま、紫苑を巡って対立する(そして瑞穂が勝利を収める)。ただし、あくまで「最初と最後だけ」がこの関係描写にふさわしいことに注意する。
 続いて、「女と男」の関係描写。CD-ROM版のパッケージ絵を見ていただきたい。先入観なしで、右の人と左の人、どちらか片方が男であるとして問題が出された場合に、「左の人」と誤答した事例は多い。また、これを裏付けるかのように、終盤、瑞穂は紫苑に「バレンタインチョコ」を渡している。
 「男と男」の関係描写は、多少特殊な方法を用いる。演劇「ロミオとジュリエット」である。この中で、紫苑は口の達者で気障な青年マキューシオとして、小鳥遊圭のアレンジのもと、ロミオ=瑞穂の友人を演じることに成功している。
 最後に、「女と女」の関係描写だが、瑞穂を友人と定めたその日から、学校生活の殆どを「女と女」の関係で過ごす。ロッカーでの胸パッド遊びから、お見舞いから、文化祭から、何から何までである。それも当然で、両者ともに女らしさが徹底して求められる「エルダーシスター」の立場にいるためである。
 このように、この二人を男女で見るときにはいろいろな描き方が存在しているため、性役割の視点からキャラクターを一意に定めることは、特に議論を行う際に危険である。

「瑞穂さん……あなたはさっきから男だって云ってみたり女だって云ってみたり……都合が良すぎますよ」――十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)

2.6 まとめ
 まず、2.1節では、瑞穂が男性であるがゆえに女性としての性自認を持たされることについて検証した。続いて、2.2節では、女の子の世界として、マリみてに類似した、友情ベースの世界観の構築を確認した。2.3節から2.5節にかけて、恋愛の形としてのおとボクについて考察した。
 恋愛の考察において、瑞穂の性別は「男性のほうがよい」「女性のほうがよかったが、その壁を乗り越えた」「そう、かんけいないね」の3パターンが存在することを示した。
 このパターニングを直感的に受け入れると、宮小路瑞穂は男性として、そして、女性としての両面から恋愛が可能であると推測される、果たしてこの解釈が正しいのであろうか?
 反論は、おとボクの中にある。冒頭でも引用した言葉であるが、再度引用する。

 「恋愛は心でする物であって、性別でする物ではありませんよ?」―― 十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)

また、同様の主張は、より厳しい体験をくぐり抜けた教師によっても示されている。

 「好きになるのは理屈じゃないわ。相手がどんな人間でも、好きになってしまえば関係ないの……性別だって、年齢だって、本当はきっと全然関係ないものなのよ」―― 梶浦緋紗子(処女はお姉さまに恋してる)

 そう、瑞穂の実性別は、おとボクという恋愛物語において、本質とはほぼ無関係なのである。であれば、その「百合っぽい」関係を本物の「百合」関係と区別することに、何の意味があろうか。

(1)マリみては百合じゃない ―― “Love” is only a strong word of “Like”

2007年12月25日 火曜日

ここでは、一つ目の命題「『おとボク』が『マリみて』の存在意義を否定するものでないこと」を示す。

1.1 「百合としての」マリみての存在否定 ―― マリみての視点から
 まず、前提として、マリみてが百合である点について、否定する要素は……ありすぎるから困る(AA略)。

1.1.1 佐藤聖について
 マリみてきっての百合少女とされている佐藤さん(元ロサ・ギガンティア)であるが、彼女がマリみての百合世界において、恋愛らしい恋愛をしたのはただ一度、久保栞を相手にしたときだけであり、作品内で全面的に否定されている。しかも、否定した上村佐織学園長は、その昔同じ轍を踏み自殺を図った経験の持ち主である(いばらの森)。
 栞を失ったその後は、志摩子にちょっかいを出せなかったり、祐巳ちゃんに対して無駄に抱きつき魔と化してみたり、卒業後は景さんの家に上がり込んだりもしている上、祐巳のピンチを格好良く救う(レイニーブルー/パラソルをさして)が、そういった態度が恋愛感情に結びつく様子はない。

1.1.2 福沢祐巳について
 マリみてが百合とされるのは、福沢祐巳・小笠原祥子の二人の存在も大きいと考える。ただし、純粋な百合とカテゴライズするためには、いくつかの問題が発生する。
 まずは、二人の関係を支える柏木優・福沢祐麒の二人が、百合認定には大きな障害となる。
 柏木については、祥子と寿司ネタを交換する(くもりガラスの向こう側)、何も言わずにデートに着いてくる(薔薇のミルフィーユ)などの行為に対し、祥子がそれを当然とし、嫌悪感を一切示さない。このため祐巳の嫉妬心を買っているが、柏木は祐巳のことを祥子に必要な存在と断言する。
 また、祐麒についても、好きな異性のタイプを言い合ったときに祐巳の好きなタイプを祥子と見破る(真夏の一ページ)他、祐巳関連で助力になることも多い。
 また、祐巳の人間関係の深さが、百合という狭い概念に祐巳を閉じこめておかない。祐巳の心の成長には、志摩子と由乃の存在、とりわけ由乃の冷静沈着な助言が不可欠である(話は逸れるが、由乃がこの冷静さを自らに適用し、行動で示せれば、暴走機関車あるいはアホの子のような評判を覆すことは難しくないと考えられる)。祐巳の瞳子に対する態度を見るときには、周囲の助けによる祐巳のレベルアップの要素を見逃すことはできない。
 また、松平瞳子においては、周囲の助けを拒んだ瞳子が、自らの葛藤によってずたぼろに切り刻まれていく様子と、それでも助け船を出す祥子・乃梨子・可南子の三人、そして何も言わずゆっくり待つ祐巳によって関係性を取り戻していく課程が描かれる。

1.1 まとめ
 マリみてでは、恋愛のような狭く強い関係性ではなく、周囲との友情を主眼とした広い関係性こそが、前に進むために求められる。聖と栞の関係が失敗したこと、祐巳と祥子の関係が成功したこと、祐巳と瞳子の関係が成功しそうなこと(*)にも通じる。

*この原稿を執筆している時点で、筆者は最新刊「薔薇の花かんむり」を読んでいません。

1.2 マリみてに追随する「百合マーケティング」 ―― エンゲージ、ストパニ、かしまし
 しかし、マリみてで示された、その広い関係性とその必要性は描ききられることなく、一対一あるいは一対多の、女の子同士の疑似恋愛関係のみが着目されるに至った。
 そして、類似された作品の発売は「百合ブーム」を活かして広まるものも多かったが、マリみての本質を決してとらえることなく、表面を一致させるだけに終わっている。

1.2.1 エンゲージ〜お姉様と私〜
 いきなり未プレイのエロゲーを持ってくるのは申し訳ないが、マリみてから派生したマーケティングを考慮するにあたり、この作品を紹介しないのは間違いと思うので一応。
 2005年6月に発売されたこの作品は、「百合編」と「陵辱編」の二部構成から成る。「マリみてのようなエロゲー」を目指して行ったことは二つ。
 (1:マリみてのような)キャラクターの造形を似せ、百合編を製作した。
 (2:エロゲー)お嬢さま学園を舞台にしたエロゲーのお約束として、陵辱編を制作した。
 しかし、ディスク2枚組の大作であるこの作品は、時代のはざまに浮かんで消える中堅エロゲーの枠を超えて話題になることはなかった。その理由は簡単で、同時期に発売された、別の「マリみてのようなエロゲー」に立場を奪われたため。

1.2.2 ストロベリー・パニック!
 翻って、こちらは男性の存在を一切消去することで商業的な成功を収めた作品。電撃G’sマガジンの読者投稿欄を出自としたが、その出自を忘れてガチ百合アニメ・ハーレム百合コメディ小説などのマルチメディア展開を図り、百合ブームにきっちり乗り込み大成功を収める。
 作品に対する批判としては、「百合」と「レズ」の壁に関するものが多い。百合とレズの壁、とは、直接的意味に於いてはプラトニック・ラブであるか否か、間接的意味に於いては精神的関係にとどまる「美しさ」を内包するか否か、を示す。
 この批判は、花園静馬・南都夜々らによる、過剰に肉体的なアプローチが百合ではなく、現実のレズビアンを彷彿とさせるというものだ。また、蒼井渚沙に対する涼水玉青・月館千代らの献身的な姿や、鳳天音・剣城要と言った「宝塚」キャラクターによるヒロイン(此花光莉)の奪い合いも、(精神的な意味での)血みどろの戦いによる本気の恋愛を想定させることから、百合とレズの概念差に引っかかる可能性に注意する。
 この作品の特殊な構造として、源千華留を中心とするル・リムの学生が、立場の割に人気の高いことが挙げられる。メインストーリーに絡むことがほとんどないル・リムであるが、「変身部」(「一番乗り部」等、名称変化多数)の活動にて、ほのぼのとした女学生達が描かれる。アニメにおいてはちょい役にもかかわらず、ストパニ人気の源泉の一つともなっている。ル・リムという閉鎖的空間内ではあるものの、この全方位に向けた仲の良さが、マリみて的な雰囲気の演出を表現していると説明するのは容易い。

1.2.3 かしまし〜ガール・ミーツ・ガール〜
 主人公の少年・大佛はずむが、純粋レズビアンであるヒロインの一人・神泉やす奈に告白し、玉砕。失意のさなか、どこからともなく飛んできた宇宙船に衝突、失った命を超テクノロジーで復活させる際に女性化してしまうことから始まるストーリー。アニメとコミックを中心としたメディア展開の妙は、原作者・あかほりさとるの手腕を遺憾なく発揮した成果といえる。
 ただし、女の子の体を持ちながら未だ少年である大佛はずむを、幼なじみ・来栖とまりと神泉やす奈の二人が取り合う様子を主軸として物語は進む。この、典型的な男女の三角関係ストーリーとして描いている点が、百合ファンには問題と映るようだ。
 また、大佛はずむは、最後にヒロインの片方を選択する(すなわち、もう一方のヒロインを切り捨てる)選択肢を暗に強制されている点から、全体の和をよしとする「女の子の間の関係性」とは切り離されるべき問題ともなる。

1.2 まとめ
 マリみてを発端とする百合ブームにおいて数多くのヒット作品が生まれたが、いずれも表面的な模倣に過ぎず、マリみての本質である、友情を中心とした広い関係性に向かって動くことを主眼とする作品は生まれていない。

1.3 唯一にして最初に成功した模倣 ―― 処女はお姉さまに恋してる
 最初に断っておく。おとボク原作ゲームの制作者や、多くのプレイヤー、そして殆どのクリエイター達は、この作品がマリみての模倣として評価される理由を知らない。この知見は、多くのプレイヤーの意見を「まとめた」一人のファンにより発見されたものであり、私はその知見をマリみてに関連づけ、論述を行っているだけである。

 おとボクは、「マリみてのようなエロゲー」として世に発売された。しかし、マリみてに忠実であるため、エロゲーの構造を保持しておくことが許されなかった。徹底的に丁寧で、そして全てのキャラクターを活かすシナリオの作りが要求された結果、エロゲーの文法に則って、エロゲーの構造の殆どを捨て去る必要性に駆られた。
 かろうじて残されたエロゲーの構造は、第一話における女性慣れ対策シーンと、Interludeにおける緋紗子先生とのシーンである。しかし、前者は主人公萌えの悪夢をもたらし、後者は大半のプレイヤーから蛇足との批判を受けた。

1.3.1 おとボクは、マリみての何を再発見したのか
 わかりやすいキャラが求められるエロゲーに対して、主人公・宮小路瑞穂は大企業の御曹司にして完璧超人であるにも関わらず、弱気ないじられキャラとして愛されるという、お約束を完全に外した設定。快活で頭の弱い幼なじみヒロイン・御門まりやは、主人公をリードする頼れる知恵袋、薄幸の美少女であるヒロイン・十条紫苑は体格の良いおちゃめな先輩。人気の最も高いヒロイン・厳島貴子は、ツンデレと称されながらツンの欠片も見られない。元気な後輩・上岡由佳里は作品きっての内気少女、見た目小学生の後輩・周防院奏は奨学生に相応しい頭の切れ味を見せる。
 ヒロインを単体で見ることを要求されるエロゲーにとって、この分かりづらい設定は障害でしかない。しかし、女の子同士の友情を表現する際、一見ひねくれた設定が実に効いてくる。

 翻って、マリみてを見てみると、「レイニーブルー」にて祐巳と祥子のすれ違いがあったとき、その関係性を継続するために、多くのキャラクターが活躍あるいは暗躍している。また、「パラソルをさして」を起点とする、祐巳と瞳子の関係性構築についても、他のキャラクターの活躍を見逃すことは決して許されない。
 そこには、女の子同士の広い友情によって問題を乗り越えるという、マリみてで繰り返し丁寧に描かれてきた物語の構図が再現されている。

 繰り返しということで、マリみてとおとボクには、物語の中で再現されるイベントがいくつか存在する。
 マリみてでは、「白き花びら」(過去:春日せい子と上村佐織、現代:佐藤聖と久保栞)「レイニーブルー」(過去:小笠原の祖母と池上弓子、現代:小笠原祥子と福沢祐巳)を中心に、ネタとして「妹オーディション」(過去:水野蓉子・小笠原祥子・福沢祐巳、現代:小笠原祥子・福沢祐巳・支倉令)など。
 おとボクでは、宮小路幸穂と高島一子の話がこれに該当し、第2話のきっかけがここに存在する。また、梶浦緋紗子と長谷川詩織の話は、宮小路瑞穂と上岡由佳里のストーリーにおける伏線になる。

 上記以外にも、伏線とネタのあふれた文章の仕掛けは、文学界では長らく続けられてきたものであるが、エロゲーにおいては、「つよきす」(きゃんでぃそふと、2005)で一度完成したパロディの潮流とぴったり合致する。これは偶然の一致ではなく、シナリオ・テキストの重要性の増大とともに、エロゲー側が文学側に近づいてきたことを意味するものである。
 もちろん、文学界におけるマリみて、エロゲー界におけるおとボクもこの例に漏れない。

 最後に、以上には触れなかったが、お嬢さま学園における主人公の成長物語というフレームワークは、両者で共通の前提である。

1.3.2 おとボクは、マリみての何を超越したのか
 しかしながら、おとボクはエロゲーである以上、完全にマリみてに忠実というわけにはいかなかった。すなわち、男でありプレイヤーの分身である主人公は、ヒロインの誰かと結ばれなければならない(この記述を含め、本章は百合を一切否定しない。詳しくは後述する)。
 普通のエロゲーであれば、都合良くヒロインとくっつけて他の登場人物に退場願い、山有り谷有りのいちゃいちゃラブラブを楽しむことに主眼が置かれる。しかし、おとボクではあえてその構図を取らず、マリみての手法をとった。すなわち、女の子同士の友情を主眼とした広い関係性を、恋愛の成就にすら適用したことである。
 とくに、十条紫苑シナリオにおいては、瑞穂と紫苑の関係を成就させる為に、厳島貴子・御門まりや・周防院奏など殆どの登場人物が協力し、また想いを成就した暁には、それを七百余名の「妹たち」が祝福する様子が描かれている。狭い世界にとどまっていたのでは、これほど大きな祝福は決して得られなかった。
 要するに、友情の延長線である「姉妹関係」にとどまらず、完全に一対一の関係である「恋愛」にすらマリみての「友情関係」の構図を利用し尽くしたのがおとボクという作品である。
 これは、マリみての特徴をさらに深くまで適用した、非常に希有な作品とすることができる。

1.3.3 おとボクは、マリみての何に届かなかったのか
 そして、もう一つの「エロゲー」の限界が、おとボクには存在する。最も大きいものは、物理的制約による作品世界の限界である。
 マリみては、1997年2月号のコバルト本誌よりスタートし、2007年10月に発売された「薔薇の花かんむり」にて、31冊(プレミアムブック・イラストコレクション含む)を数える大作である。作品世界では一年と半分ほどを経過しているが、その冊数に見合うほど登場人物は多い。また、小説という媒体も手伝って、それぞれの登場人物に関する情報は冊数という数字に見合わない程多い。
 翻って、おとボクが2005年2月に発売されたときは、ヒロインがフルボイス・イベントCGバリバリでCD-ROM2枚組、テキスト容量は6.5MBに満たない。6.5MBだと、小説1ページを平均1kB、一冊を平均200ページとして、およそ32冊分に見える。しかし、シナリオの重複分があるため、およそ6〜7冊程度に収まってしまう。また、登場人物を一人増やすということは、立ち絵を一人分と声優を一人準備する必要があり、作品の納期およびコストに与える影響は大きい。
 従って、ゲームという名前のソフトウェアプロジェクトであるおとボクを作るためには、登場人物を最小限まで削り取る必要があり、必然的に作品世界の広がりも最小限に抑えられてしまう。
 (サブキャラであれば同じ立ち絵を使い回せばよいという意見については、「いじめっ子と生徒会役員(あるいは萌えキャラ)が同じ達グラフィックでがっかりした」との反論が存在する)

 また、文章書きの能力についても、雲泥の差が見られる。
 マリみての文章はティーンエイジの少女を対象としているため、あえて平易にした文章の中に、ところどころ難しい語彙を混ぜることで読者の語彙力を高めようとする配慮がある。そして、伏線を最大限に生かし、また疑問を持たせるため、ミスディレクション(誤導)の活用も辞さない。「レイニーブルー」での祥子の言い訳、「バラエティギフト」での由乃の自己嫌悪などはミスディレクションの典型である。
 また、「縦ロール」を「盾ロール」と誤植した巻(未来の白地図)においては、あとがきで読者からの手紙に対して誤植への注文をつけたため、この誤植に関して致命的失策かそれとも故意か、憶測が飛び交ったものである。これが無名の作家であれば、単なる誤植として片付けられていたものが、今野緒雪であるからこそ議論が沸騰し、同人誌のネタとして扱われるまでになった。
 翻っておとボクは表記揺れなどの細かいミスが多く、プロットやキーセンテンスなどは話題に上ることは多いが、地の文はほとんど話題にならない。また、地の文は完全に直球で、先の読みやすい展開であった。
 おとボクでも難しい語彙などはあり、解説ウィンドウなどの親切なシステムは存在したが、これは序盤のゲームプレイのサポートと終盤のネタに限られていた。

1.3 まとめに代えて ―― マリみてにとっておとボクとは何なのか
 良い論文は、多くの人に読まれ、多く引用されるものであるというのは学術界の定説であるが、駄文に引用されても価値が上がるわけでなく、また、本質が伝わらないような引用をされてしまうと元の論文の価値が曲げられてしまう。
 マリみても、おとボク登場の直前までは、表面だけの模倣に晒され、価値を曲げられていたと言える。しかし、おとボクという本質をとらえた模倣作品が世に出され、そしてこの作品は企業の供給能力を遙かに超えた需要が存在することが明らかになった。
 これは、おとボクの「原典」たるマリみてが、マリみて以外の形で初めて完全肯定された瞬間と言える。女の子の友情をメインにした話の作り方が完全に成功し、マリみての目指した方向性が正しかったことが、別の形で肯定された。
 そして、「関連作品」のつながりは、人の流動と発展を促す。マリみてのファンは「コバルト」の読者層である、十代の女性と二十代の男女を中心に拡大しているところ、おとボクのファンは当初、一ひねり効いたエロゲープレイヤーである三十代以上の男性を中心に拡大していた。また、同時に当初からのマリみて読者は世界を広げ、おとボクのプレイヤーと交流可能な年齢にまで達する者も発生する。
 この一見関係のない二つの要素が交わると、何が起きるか。お互いの作品が多方面からの批評を受け、良い点・悪い点があぶり出される。また、それと同時に、お互いの作品がメディア展開などで層を増やすときに、関連作品として紹介されることで両者のファンが増えることになる。すなわち、作品ファンの裾野が広がるのである。
 裾野が広がり、知名度を上げていく段階で頭のおかしいファンやアンチにとりつかれることもあるだろう。しかし、マリみて・おとボクともに、批判を乗り越えるだけの高い品質を持った作品であることは論を待たない。質の悪い作品が、多くの人の心を数年間にわたってとらえ続けることなど、出来るわけがないのだから。

1.4 閑話休題なお話をいくつか
 ま、ネタってことで。

1.4.1 マリみてとおとボクのアニメ共通点
 マリみてのアニメは、マリみてファンが楽しむために作られ、妥当な成功を収めたアニメーションであり、おとボクのアニメは、声優ファンが楽しむために作られ、成功した後も原作プレイヤーとの間にしこりを残すアニメーションと、全く異なる結果を残したアニメではあるが、その中身にはいくつかの共通点が見られる。

 a. 最初に尺の短さを露呈させる ―― 第1話〜第3話
 マリみての場合は明らかにファン向けに作られており、ある程度の省略やスキップはたいした問題にはならないという事情がある。翻っておとボクの場合は、作品世界への導入は最低限に、御門まりやvs厳島貴子の構図を明確にしたいという意思が働いていた。
 その結果、全く違う構図にもかかわらず、同じ現象が発生した。
 序盤にキャラクターを登場させ、その関係性と作品概念に少しずつなじまなければならないこの時期に、両アニメとも、徹底的にイベントを詰め込んでいる。一般的なアニメであればある程度のテンプレートが身体に染みついているので正しい方法論ではあるが、慣れない概念が入り込む中、ゆっくりとした流れに身体を置き、作品世界に慣れ、いくつかのキーワードを覚えるための時間が、両者ともに圧倒的に不足していた。

 b. 説明不足による違和感 ―― マリみて春「銀杏の中の桜」とおとボク「小っちゃな妹と大きなリボン」
 一見どうでもよいシーンの省略や変更が、作品に対する印象をがらりと変えることがある。

 マリア様が見てる〜春〜第8話「銀杏の中の桜」、乃梨子が祥子と志摩子のバトルシーンを止めに入ろうとし、令にやんわり制止される場面。全くもって原作通りのこのシーンに対し、私は一つの違和感を覚えた。
 「あれ、乃梨子って、こんな簡単に引き下がるような子だっけ?」
 原作の小説を読み直して、違和感の正体を調べてみたところ、驚くべき事実が浮かび上がった。
 アニメでは省略されていた菫子さんとの他愛ない会話が、原作では重要な伏線となっていたのだ。上のシーン、原作では、偶発してしまった大きな事件を使って、志摩子さんの閉塞した状況を一気に押し流すための賭に出たとも読み取れるシーンだが、菫子さんの助言を省略したことで、乃梨子が単に牙を抜かれたように見えてしまったのである。

 そして、乙女はお姉さまに恋してる第7話「小っちゃな妹と大きなリボン」にて、いくつかの重要な事実を取りこぼしている、あるいは変更しているため、この話の名台詞「恥を……恥を知りなさい!」にて、私は原作プレイヤーにあるまじき感想を抱いた。
 「あれ、瑞穂きゅんって、こんなDQNだったっけ?」
 DQNとは常識や知性に欠けている人・組織を表す言葉であり、エルダー・宮小路瑞穂のイメージには全くそぐわない。もちろん、原作ゲームで該当のシーンをプレイしたときも、こんな感想が出てきたことは一度もない。
 それにも関わらず、この感想が出てきた理由はいくつかあるが、最大の理由は奏ちゃんを守るための大義名分であろう。前述でもリンクで示したが、いくつかの省略と変更により、原作では大義名分が瑞穂と奏の側にあったものが、アニメでは大義名分が貴子の側にあるように変わってしまったのだ。そのため、無意味に生徒を叱りつける瑞穂が、エルダーの権力を振りかざしているように見えてしまったのだ。

 このように、マリみてとおとボクでは、原作のテキストのレベルをアニメで表現しきれないことを原因とした不具合の内容が、不思議と共通している。マリみて・おとボク共に、生半可な姿勢では理解しきれないことを示す、良い教訓とも言えよう。

1.4.2 花物語 ―― 百合の古典は、マリみての感動をもたらさない
 さて、一旦時代をさかのぼって、女学生百合の最高傑作のひとつである、吉屋信子「花物語」について簡単な感想を述べてみたいと思う。
 本書は大正時代後半に発売されたが、会社を変わりながら再版を続け、現在は国書刊行会にて再版されている。要するに、国家と権力すら認める女学生百合の金字塔ということだ。
 私は国書刊行会にて発行された版を一年掛けて、上・中・下と読んだが、正直に申し上げると、話の半分も頭に入らなかったばかりか、読み直す気すら起きずに古書店行きとあいなった。
 基本的には、女学校を舞台とした女学生の短編集である。女学生同士、先輩に憧れる話、後輩を可愛がる話、同級生同士で助け合う話、いがみあう話、あるいは百合っぽい学校の怪談など、話が多岐にわたり、そのエピソードごとに全く違う主人公が設定される。
 古風な文体に妙なカタカナ言葉が混じった表現が、大正時代という背景をよく表し、また難しい単語もほとんどないため、文体にさえ慣れてしまえば比較的読みやすい。
 ただし、ショートストーリーであるがゆえに、一つ一つの話に全く連続性がなく、キャラクターに愛着を持ちづらい。これは、現代のライトノベルに慣れてしまったために仕方ないのかもしれない。とにかく、シチュエーションにその場だけ萌えて、そしてすぐに忘れてしまう、の繰り返しであった。もちろん、私の読み方に問題があった可能性は否定できない(今思えば、1日に2話以上読んではいけない作品だった)が、主人公がころころ入れ替わるため感情移入が難しいのだ。
 そして、完全な短編集というのが裏目に出て、世界を構成する人物がとにかく狭くなりがちで、広い友情を構築し、読者にそれを実感させるだけのページ数はとうてい確保されない。
 したがって、私はこの作品を百合として楽しむことは出来たが、マリみての原典としてみることは難しかった。

1.4.3 二次創作について ―― 神託は、人の思想を変えない
 さて、上記の記事について、一つ誤解を解いておこうと思う。
 上記の記事を読むと、マリみてを百合としてみることが許されないかのように見えるが、私はマリみてが百合ではないことを指摘しただけであり、それを百合として見る分については否定しない。英語で言うと、「A is B」は許されないが、「A as B」は個人の自由なのである。
 したがって、上記論述をふまえた上で、それでもマリみての二次創作を百合に仕立て上げるのは、二次創作のための思想そしてテクニックであることは自明の理である。かくいう私も、「特別でないただの一日」にて、待ち合わせをする聖と蓉子の二人を、無理矢理百合と解釈する二次創作小説「40 minutes」を発表している。
 二次創作とは、ある作品を「ジャンル」すなわちプラットフォームとして自らの思想を表現する手法であると言える。二次創作には原作の設定が最大限活用されるが、すべてが原作である必要はなく、思想や解釈の差が反映される余地は十分に残っている。

恋できない乙女と仕事の楯

2007年9月22日 土曜日

恋する乙女と守護の楯
恋する乙女と守護の楯

Axl-Softの発売したゲーム「恋する乙女と守護の楯」、通称「恋楯」について、一点だけ腑に落ちないところがあった。

キャラも良い。
シナリオも良い。
シチュエーションも良い。
ネタも良い。
イラストも良い。
音楽も良い。
システムも良い。
なのに、なんでこの作品が好きになれなかったんだろう。

その答えを、やっと見つけることが出来た。

結論だけを先に書くと、恋楯はおとボクをさらにエロゲー側に寄せたタイプのゲームであることが分かった。
造りもしっかりしているので、「興味の問題で自分内評価は低いが、それでも他人には強くお勧めできる」ゲームとして評価を残せるものだ。
ただ、私にとってストライクゾーンからは外れていた、それだけの話である。

以下、上記結論に至った根拠を示すが、おとボク・恋楯のネタバレを中心に、いろいろと独善的な意見や言い回し等があるので注意。

(さらに…)

解決:瑞穂きゅんコスの状況はさらなる複雑さを秘める

2007年1月2日 火曜日

正月から挨拶もせずに考察を続ける。

男性による女装キャラコスプレが女装か否か、という話題を先日取り上げたが、これについては概念を二つに分割することで解決することが出来る。

すなわち、「男装・女装」と「キャラコス」を明確に分離することだ。たとえば、瑞穂きゅんや準にゃんのコスの場合は、「女装」であり、「男性キャラコス」である。

前述のエントリーに沿って考えるならば、レイヤー2とレイヤー3の関係は無視して、あくまでレイヤー1とレイヤー2あるいはレイヤー3の関係に絞って考えればよいのだ。

レイヤー1とレイヤー2の間で考えるならば、「男性キャラコス・女性キャラコス」だけが概念として存在し、レイヤー1とレイヤー3の間で考えるならば、「男装・女装」だけが概念として存在する。

この概念を用いると、次のような複雑な問題もすっきり解決することができる。

たくみさんに質問。男の子が女装して学校に通っていて、男装キャラをやる。(瑞穂ちゃん@学院祭)というのを女の子がやるとどうなるのでしょうー
あまの めぐみ、おとボクまとめサイトチャットの発言から

前述のレイヤー構造でこの問題を考えると、
レイヤー1:女の子
レイヤー2:瑞穂きゅん
レイヤー2.5:お姉さま
レイヤー3:ロミオ
の4つのレイヤーが存在する。

# ここで、さらに劇中劇でロミオがジュリエットコスをするなどのシチュエーションが存在すると仮定した場合、
# レイヤー1:女の子
# レイヤー2:瑞穂きゅん
# レイヤー2.3:お姉さま
# レイヤー2.7:ロミオ
# レイヤー3:ジュリエット
# の5層となり、さらに奇怪な解析が必要となる。実際の劇ではこのようなシチュエーションが存在しないので考える必要はないかもしれないが、応用なども考えると考察する価値はある。

このとき、レイヤー2.5である「お姉さま」の扱いが非常に難しい(レイヤー2と3の間で、性別概念が2回ひっくり返る)ため、解析は非常に難しいものとなるが、レイヤー1とのインタフェースのみに着目することで、この複雑な問題を概念として回避することができる。

すなわち、問題に掲げられた状況は、「女性による男装」であり「女性による男性キャラコス」ということに他ならない。
# #で区切った5層の状況は、「女性による女装」であり「女性による男性キャラコス」と言うことが出来る。

さて、概念を分割したところで、結局女装は女装じゃねーか! という結論に落ち込んでしまったわけですが、男性キャラコスであることから、どこまでコスプレの正当性を主張可能か、という点が次の課題になるといえましょう。
もちろん、女性による男装および女装、男性による男装を認めておきながら、男性による女装を認めない現状の社会をヲタクの側から変革していくことも重要と思われますが、いきなり高いハードルを課するよりは、まずは低い概念を認めさせることが大切でしょう。

……そこまでして女装せんでもええやん、というツッコミは禁止ね(笑)