(1)マリみては百合じゃない ―― “Love” is only a strong word of “Like”

ここでは、一つ目の命題「『おとボク』が『マリみて』の存在意義を否定するものでないこと」を示す。

1.1 「百合としての」マリみての存在否定 ―― マリみての視点から
 まず、前提として、マリみてが百合である点について、否定する要素は……ありすぎるから困る(AA略)。

1.1.1 佐藤聖について
 マリみてきっての百合少女とされている佐藤さん(元ロサ・ギガンティア)であるが、彼女がマリみての百合世界において、恋愛らしい恋愛をしたのはただ一度、久保栞を相手にしたときだけであり、作品内で全面的に否定されている。しかも、否定した上村佐織学園長は、その昔同じ轍を踏み自殺を図った経験の持ち主である(いばらの森)。
 栞を失ったその後は、志摩子にちょっかいを出せなかったり、祐巳ちゃんに対して無駄に抱きつき魔と化してみたり、卒業後は景さんの家に上がり込んだりもしている上、祐巳のピンチを格好良く救う(レイニーブルー/パラソルをさして)が、そういった態度が恋愛感情に結びつく様子はない。

1.1.2 福沢祐巳について
 マリみてが百合とされるのは、福沢祐巳・小笠原祥子の二人の存在も大きいと考える。ただし、純粋な百合とカテゴライズするためには、いくつかの問題が発生する。
 まずは、二人の関係を支える柏木優・福沢祐麒の二人が、百合認定には大きな障害となる。
 柏木については、祥子と寿司ネタを交換する(くもりガラスの向こう側)、何も言わずにデートに着いてくる(薔薇のミルフィーユ)などの行為に対し、祥子がそれを当然とし、嫌悪感を一切示さない。このため祐巳の嫉妬心を買っているが、柏木は祐巳のことを祥子に必要な存在と断言する。
 また、祐麒についても、好きな異性のタイプを言い合ったときに祐巳の好きなタイプを祥子と見破る(真夏の一ページ)他、祐巳関連で助力になることも多い。
 また、祐巳の人間関係の深さが、百合という狭い概念に祐巳を閉じこめておかない。祐巳の心の成長には、志摩子と由乃の存在、とりわけ由乃の冷静沈着な助言が不可欠である(話は逸れるが、由乃がこの冷静さを自らに適用し、行動で示せれば、暴走機関車あるいはアホの子のような評判を覆すことは難しくないと考えられる)。祐巳の瞳子に対する態度を見るときには、周囲の助けによる祐巳のレベルアップの要素を見逃すことはできない。
 また、松平瞳子においては、周囲の助けを拒んだ瞳子が、自らの葛藤によってずたぼろに切り刻まれていく様子と、それでも助け船を出す祥子・乃梨子・可南子の三人、そして何も言わずゆっくり待つ祐巳によって関係性を取り戻していく課程が描かれる。

1.1 まとめ
 マリみてでは、恋愛のような狭く強い関係性ではなく、周囲との友情を主眼とした広い関係性こそが、前に進むために求められる。聖と栞の関係が失敗したこと、祐巳と祥子の関係が成功したこと、祐巳と瞳子の関係が成功しそうなこと(*)にも通じる。

*この原稿を執筆している時点で、筆者は最新刊「薔薇の花かんむり」を読んでいません。

1.2 マリみてに追随する「百合マーケティング」 ―― エンゲージ、ストパニ、かしまし
 しかし、マリみてで示された、その広い関係性とその必要性は描ききられることなく、一対一あるいは一対多の、女の子同士の疑似恋愛関係のみが着目されるに至った。
 そして、類似された作品の発売は「百合ブーム」を活かして広まるものも多かったが、マリみての本質を決してとらえることなく、表面を一致させるだけに終わっている。

1.2.1 エンゲージ〜お姉様と私〜
 いきなり未プレイのエロゲーを持ってくるのは申し訳ないが、マリみてから派生したマーケティングを考慮するにあたり、この作品を紹介しないのは間違いと思うので一応。
 2005年6月に発売されたこの作品は、「百合編」と「陵辱編」の二部構成から成る。「マリみてのようなエロゲー」を目指して行ったことは二つ。
 (1:マリみてのような)キャラクターの造形を似せ、百合編を製作した。
 (2:エロゲー)お嬢さま学園を舞台にしたエロゲーのお約束として、陵辱編を制作した。
 しかし、ディスク2枚組の大作であるこの作品は、時代のはざまに浮かんで消える中堅エロゲーの枠を超えて話題になることはなかった。その理由は簡単で、同時期に発売された、別の「マリみてのようなエロゲー」に立場を奪われたため。

1.2.2 ストロベリー・パニック!
 翻って、こちらは男性の存在を一切消去することで商業的な成功を収めた作品。電撃G’sマガジンの読者投稿欄を出自としたが、その出自を忘れてガチ百合アニメ・ハーレム百合コメディ小説などのマルチメディア展開を図り、百合ブームにきっちり乗り込み大成功を収める。
 作品に対する批判としては、「百合」と「レズ」の壁に関するものが多い。百合とレズの壁、とは、直接的意味に於いてはプラトニック・ラブであるか否か、間接的意味に於いては精神的関係にとどまる「美しさ」を内包するか否か、を示す。
 この批判は、花園静馬・南都夜々らによる、過剰に肉体的なアプローチが百合ではなく、現実のレズビアンを彷彿とさせるというものだ。また、蒼井渚沙に対する涼水玉青・月館千代らの献身的な姿や、鳳天音・剣城要と言った「宝塚」キャラクターによるヒロイン(此花光莉)の奪い合いも、(精神的な意味での)血みどろの戦いによる本気の恋愛を想定させることから、百合とレズの概念差に引っかかる可能性に注意する。
 この作品の特殊な構造として、源千華留を中心とするル・リムの学生が、立場の割に人気の高いことが挙げられる。メインストーリーに絡むことがほとんどないル・リムであるが、「変身部」(「一番乗り部」等、名称変化多数)の活動にて、ほのぼのとした女学生達が描かれる。アニメにおいてはちょい役にもかかわらず、ストパニ人気の源泉の一つともなっている。ル・リムという閉鎖的空間内ではあるものの、この全方位に向けた仲の良さが、マリみて的な雰囲気の演出を表現していると説明するのは容易い。

1.2.3 かしまし〜ガール・ミーツ・ガール〜
 主人公の少年・大佛はずむが、純粋レズビアンであるヒロインの一人・神泉やす奈に告白し、玉砕。失意のさなか、どこからともなく飛んできた宇宙船に衝突、失った命を超テクノロジーで復活させる際に女性化してしまうことから始まるストーリー。アニメとコミックを中心としたメディア展開の妙は、原作者・あかほりさとるの手腕を遺憾なく発揮した成果といえる。
 ただし、女の子の体を持ちながら未だ少年である大佛はずむを、幼なじみ・来栖とまりと神泉やす奈の二人が取り合う様子を主軸として物語は進む。この、典型的な男女の三角関係ストーリーとして描いている点が、百合ファンには問題と映るようだ。
 また、大佛はずむは、最後にヒロインの片方を選択する(すなわち、もう一方のヒロインを切り捨てる)選択肢を暗に強制されている点から、全体の和をよしとする「女の子の間の関係性」とは切り離されるべき問題ともなる。

1.2 まとめ
 マリみてを発端とする百合ブームにおいて数多くのヒット作品が生まれたが、いずれも表面的な模倣に過ぎず、マリみての本質である、友情を中心とした広い関係性に向かって動くことを主眼とする作品は生まれていない。

1.3 唯一にして最初に成功した模倣 ―― 処女はお姉さまに恋してる
 最初に断っておく。おとボク原作ゲームの制作者や、多くのプレイヤー、そして殆どのクリエイター達は、この作品がマリみての模倣として評価される理由を知らない。この知見は、多くのプレイヤーの意見を「まとめた」一人のファンにより発見されたものであり、私はその知見をマリみてに関連づけ、論述を行っているだけである。

 おとボクは、「マリみてのようなエロゲー」として世に発売された。しかし、マリみてに忠実であるため、エロゲーの構造を保持しておくことが許されなかった。徹底的に丁寧で、そして全てのキャラクターを活かすシナリオの作りが要求された結果、エロゲーの文法に則って、エロゲーの構造の殆どを捨て去る必要性に駆られた。
 かろうじて残されたエロゲーの構造は、第一話における女性慣れ対策シーンと、Interludeにおける緋紗子先生とのシーンである。しかし、前者は主人公萌えの悪夢をもたらし、後者は大半のプレイヤーから蛇足との批判を受けた。

1.3.1 おとボクは、マリみての何を再発見したのか
 わかりやすいキャラが求められるエロゲーに対して、主人公・宮小路瑞穂は大企業の御曹司にして完璧超人であるにも関わらず、弱気ないじられキャラとして愛されるという、お約束を完全に外した設定。快活で頭の弱い幼なじみヒロイン・御門まりやは、主人公をリードする頼れる知恵袋、薄幸の美少女であるヒロイン・十条紫苑は体格の良いおちゃめな先輩。人気の最も高いヒロイン・厳島貴子は、ツンデレと称されながらツンの欠片も見られない。元気な後輩・上岡由佳里は作品きっての内気少女、見た目小学生の後輩・周防院奏は奨学生に相応しい頭の切れ味を見せる。
 ヒロインを単体で見ることを要求されるエロゲーにとって、この分かりづらい設定は障害でしかない。しかし、女の子同士の友情を表現する際、一見ひねくれた設定が実に効いてくる。

 翻って、マリみてを見てみると、「レイニーブルー」にて祐巳と祥子のすれ違いがあったとき、その関係性を継続するために、多くのキャラクターが活躍あるいは暗躍している。また、「パラソルをさして」を起点とする、祐巳と瞳子の関係性構築についても、他のキャラクターの活躍を見逃すことは決して許されない。
 そこには、女の子同士の広い友情によって問題を乗り越えるという、マリみてで繰り返し丁寧に描かれてきた物語の構図が再現されている。

 繰り返しということで、マリみてとおとボクには、物語の中で再現されるイベントがいくつか存在する。
 マリみてでは、「白き花びら」(過去:春日せい子と上村佐織、現代:佐藤聖と久保栞)「レイニーブルー」(過去:小笠原の祖母と池上弓子、現代:小笠原祥子と福沢祐巳)を中心に、ネタとして「妹オーディション」(過去:水野蓉子・小笠原祥子・福沢祐巳、現代:小笠原祥子・福沢祐巳・支倉令)など。
 おとボクでは、宮小路幸穂と高島一子の話がこれに該当し、第2話のきっかけがここに存在する。また、梶浦緋紗子と長谷川詩織の話は、宮小路瑞穂と上岡由佳里のストーリーにおける伏線になる。

 上記以外にも、伏線とネタのあふれた文章の仕掛けは、文学界では長らく続けられてきたものであるが、エロゲーにおいては、「つよきす」(きゃんでぃそふと、2005)で一度完成したパロディの潮流とぴったり合致する。これは偶然の一致ではなく、シナリオ・テキストの重要性の増大とともに、エロゲー側が文学側に近づいてきたことを意味するものである。
 もちろん、文学界におけるマリみて、エロゲー界におけるおとボクもこの例に漏れない。

 最後に、以上には触れなかったが、お嬢さま学園における主人公の成長物語というフレームワークは、両者で共通の前提である。

1.3.2 おとボクは、マリみての何を超越したのか
 しかしながら、おとボクはエロゲーである以上、完全にマリみてに忠実というわけにはいかなかった。すなわち、男でありプレイヤーの分身である主人公は、ヒロインの誰かと結ばれなければならない(この記述を含め、本章は百合を一切否定しない。詳しくは後述する)。
 普通のエロゲーであれば、都合良くヒロインとくっつけて他の登場人物に退場願い、山有り谷有りのいちゃいちゃラブラブを楽しむことに主眼が置かれる。しかし、おとボクではあえてその構図を取らず、マリみての手法をとった。すなわち、女の子同士の友情を主眼とした広い関係性を、恋愛の成就にすら適用したことである。
 とくに、十条紫苑シナリオにおいては、瑞穂と紫苑の関係を成就させる為に、厳島貴子・御門まりや・周防院奏など殆どの登場人物が協力し、また想いを成就した暁には、それを七百余名の「妹たち」が祝福する様子が描かれている。狭い世界にとどまっていたのでは、これほど大きな祝福は決して得られなかった。
 要するに、友情の延長線である「姉妹関係」にとどまらず、完全に一対一の関係である「恋愛」にすらマリみての「友情関係」の構図を利用し尽くしたのがおとボクという作品である。
 これは、マリみての特徴をさらに深くまで適用した、非常に希有な作品とすることができる。

1.3.3 おとボクは、マリみての何に届かなかったのか
 そして、もう一つの「エロゲー」の限界が、おとボクには存在する。最も大きいものは、物理的制約による作品世界の限界である。
 マリみては、1997年2月号のコバルト本誌よりスタートし、2007年10月に発売された「薔薇の花かんむり」にて、31冊(プレミアムブック・イラストコレクション含む)を数える大作である。作品世界では一年と半分ほどを経過しているが、その冊数に見合うほど登場人物は多い。また、小説という媒体も手伝って、それぞれの登場人物に関する情報は冊数という数字に見合わない程多い。
 翻って、おとボクが2005年2月に発売されたときは、ヒロインがフルボイス・イベントCGバリバリでCD-ROM2枚組、テキスト容量は6.5MBに満たない。6.5MBだと、小説1ページを平均1kB、一冊を平均200ページとして、およそ32冊分に見える。しかし、シナリオの重複分があるため、およそ6〜7冊程度に収まってしまう。また、登場人物を一人増やすということは、立ち絵を一人分と声優を一人準備する必要があり、作品の納期およびコストに与える影響は大きい。
 従って、ゲームという名前のソフトウェアプロジェクトであるおとボクを作るためには、登場人物を最小限まで削り取る必要があり、必然的に作品世界の広がりも最小限に抑えられてしまう。
 (サブキャラであれば同じ立ち絵を使い回せばよいという意見については、「いじめっ子と生徒会役員(あるいは萌えキャラ)が同じ達グラフィックでがっかりした」との反論が存在する)

 また、文章書きの能力についても、雲泥の差が見られる。
 マリみての文章はティーンエイジの少女を対象としているため、あえて平易にした文章の中に、ところどころ難しい語彙を混ぜることで読者の語彙力を高めようとする配慮がある。そして、伏線を最大限に生かし、また疑問を持たせるため、ミスディレクション(誤導)の活用も辞さない。「レイニーブルー」での祥子の言い訳、「バラエティギフト」での由乃の自己嫌悪などはミスディレクションの典型である。
 また、「縦ロール」を「盾ロール」と誤植した巻(未来の白地図)においては、あとがきで読者からの手紙に対して誤植への注文をつけたため、この誤植に関して致命的失策かそれとも故意か、憶測が飛び交ったものである。これが無名の作家であれば、単なる誤植として片付けられていたものが、今野緒雪であるからこそ議論が沸騰し、同人誌のネタとして扱われるまでになった。
 翻っておとボクは表記揺れなどの細かいミスが多く、プロットやキーセンテンスなどは話題に上ることは多いが、地の文はほとんど話題にならない。また、地の文は完全に直球で、先の読みやすい展開であった。
 おとボクでも難しい語彙などはあり、解説ウィンドウなどの親切なシステムは存在したが、これは序盤のゲームプレイのサポートと終盤のネタに限られていた。

1.3 まとめに代えて ―― マリみてにとっておとボクとは何なのか
 良い論文は、多くの人に読まれ、多く引用されるものであるというのは学術界の定説であるが、駄文に引用されても価値が上がるわけでなく、また、本質が伝わらないような引用をされてしまうと元の論文の価値が曲げられてしまう。
 マリみても、おとボク登場の直前までは、表面だけの模倣に晒され、価値を曲げられていたと言える。しかし、おとボクという本質をとらえた模倣作品が世に出され、そしてこの作品は企業の供給能力を遙かに超えた需要が存在することが明らかになった。
 これは、おとボクの「原典」たるマリみてが、マリみて以外の形で初めて完全肯定された瞬間と言える。女の子の友情をメインにした話の作り方が完全に成功し、マリみての目指した方向性が正しかったことが、別の形で肯定された。
 そして、「関連作品」のつながりは、人の流動と発展を促す。マリみてのファンは「コバルト」の読者層である、十代の女性と二十代の男女を中心に拡大しているところ、おとボクのファンは当初、一ひねり効いたエロゲープレイヤーである三十代以上の男性を中心に拡大していた。また、同時に当初からのマリみて読者は世界を広げ、おとボクのプレイヤーと交流可能な年齢にまで達する者も発生する。
 この一見関係のない二つの要素が交わると、何が起きるか。お互いの作品が多方面からの批評を受け、良い点・悪い点があぶり出される。また、それと同時に、お互いの作品がメディア展開などで層を増やすときに、関連作品として紹介されることで両者のファンが増えることになる。すなわち、作品ファンの裾野が広がるのである。
 裾野が広がり、知名度を上げていく段階で頭のおかしいファンやアンチにとりつかれることもあるだろう。しかし、マリみて・おとボクともに、批判を乗り越えるだけの高い品質を持った作品であることは論を待たない。質の悪い作品が、多くの人の心を数年間にわたってとらえ続けることなど、出来るわけがないのだから。

1.4 閑話休題なお話をいくつか
 ま、ネタってことで。

1.4.1 マリみてとおとボクのアニメ共通点
 マリみてのアニメは、マリみてファンが楽しむために作られ、妥当な成功を収めたアニメーションであり、おとボクのアニメは、声優ファンが楽しむために作られ、成功した後も原作プレイヤーとの間にしこりを残すアニメーションと、全く異なる結果を残したアニメではあるが、その中身にはいくつかの共通点が見られる。

 a. 最初に尺の短さを露呈させる ―― 第1話〜第3話
 マリみての場合は明らかにファン向けに作られており、ある程度の省略やスキップはたいした問題にはならないという事情がある。翻っておとボクの場合は、作品世界への導入は最低限に、御門まりやvs厳島貴子の構図を明確にしたいという意思が働いていた。
 その結果、全く違う構図にもかかわらず、同じ現象が発生した。
 序盤にキャラクターを登場させ、その関係性と作品概念に少しずつなじまなければならないこの時期に、両アニメとも、徹底的にイベントを詰め込んでいる。一般的なアニメであればある程度のテンプレートが身体に染みついているので正しい方法論ではあるが、慣れない概念が入り込む中、ゆっくりとした流れに身体を置き、作品世界に慣れ、いくつかのキーワードを覚えるための時間が、両者ともに圧倒的に不足していた。

 b. 説明不足による違和感 ―― マリみて春「銀杏の中の桜」とおとボク「小っちゃな妹と大きなリボン」
 一見どうでもよいシーンの省略や変更が、作品に対する印象をがらりと変えることがある。

 マリア様が見てる〜春〜第8話「銀杏の中の桜」、乃梨子が祥子と志摩子のバトルシーンを止めに入ろうとし、令にやんわり制止される場面。全くもって原作通りのこのシーンに対し、私は一つの違和感を覚えた。
 「あれ、乃梨子って、こんな簡単に引き下がるような子だっけ?」
 原作の小説を読み直して、違和感の正体を調べてみたところ、驚くべき事実が浮かび上がった。
 アニメでは省略されていた菫子さんとの他愛ない会話が、原作では重要な伏線となっていたのだ。上のシーン、原作では、偶発してしまった大きな事件を使って、志摩子さんの閉塞した状況を一気に押し流すための賭に出たとも読み取れるシーンだが、菫子さんの助言を省略したことで、乃梨子が単に牙を抜かれたように見えてしまったのである。

 そして、乙女はお姉さまに恋してる第7話「小っちゃな妹と大きなリボン」にて、いくつかの重要な事実を取りこぼしている、あるいは変更しているため、この話の名台詞「恥を……恥を知りなさい!」にて、私は原作プレイヤーにあるまじき感想を抱いた。
 「あれ、瑞穂きゅんって、こんなDQNだったっけ?」
 DQNとは常識や知性に欠けている人・組織を表す言葉であり、エルダー・宮小路瑞穂のイメージには全くそぐわない。もちろん、原作ゲームで該当のシーンをプレイしたときも、こんな感想が出てきたことは一度もない。
 それにも関わらず、この感想が出てきた理由はいくつかあるが、最大の理由は奏ちゃんを守るための大義名分であろう。前述でもリンクで示したが、いくつかの省略と変更により、原作では大義名分が瑞穂と奏の側にあったものが、アニメでは大義名分が貴子の側にあるように変わってしまったのだ。そのため、無意味に生徒を叱りつける瑞穂が、エルダーの権力を振りかざしているように見えてしまったのだ。

 このように、マリみてとおとボクでは、原作のテキストのレベルをアニメで表現しきれないことを原因とした不具合の内容が、不思議と共通している。マリみて・おとボク共に、生半可な姿勢では理解しきれないことを示す、良い教訓とも言えよう。

1.4.2 花物語 ―― 百合の古典は、マリみての感動をもたらさない
 さて、一旦時代をさかのぼって、女学生百合の最高傑作のひとつである、吉屋信子「花物語」について簡単な感想を述べてみたいと思う。
 本書は大正時代後半に発売されたが、会社を変わりながら再版を続け、現在は国書刊行会にて再版されている。要するに、国家と権力すら認める女学生百合の金字塔ということだ。
 私は国書刊行会にて発行された版を一年掛けて、上・中・下と読んだが、正直に申し上げると、話の半分も頭に入らなかったばかりか、読み直す気すら起きずに古書店行きとあいなった。
 基本的には、女学校を舞台とした女学生の短編集である。女学生同士、先輩に憧れる話、後輩を可愛がる話、同級生同士で助け合う話、いがみあう話、あるいは百合っぽい学校の怪談など、話が多岐にわたり、そのエピソードごとに全く違う主人公が設定される。
 古風な文体に妙なカタカナ言葉が混じった表現が、大正時代という背景をよく表し、また難しい単語もほとんどないため、文体にさえ慣れてしまえば比較的読みやすい。
 ただし、ショートストーリーであるがゆえに、一つ一つの話に全く連続性がなく、キャラクターに愛着を持ちづらい。これは、現代のライトノベルに慣れてしまったために仕方ないのかもしれない。とにかく、シチュエーションにその場だけ萌えて、そしてすぐに忘れてしまう、の繰り返しであった。もちろん、私の読み方に問題があった可能性は否定できない(今思えば、1日に2話以上読んではいけない作品だった)が、主人公がころころ入れ替わるため感情移入が難しいのだ。
 そして、完全な短編集というのが裏目に出て、世界を構成する人物がとにかく狭くなりがちで、広い友情を構築し、読者にそれを実感させるだけのページ数はとうてい確保されない。
 したがって、私はこの作品を百合として楽しむことは出来たが、マリみての原典としてみることは難しかった。

1.4.3 二次創作について ―― 神託は、人の思想を変えない
 さて、上記の記事について、一つ誤解を解いておこうと思う。
 上記の記事を読むと、マリみてを百合としてみることが許されないかのように見えるが、私はマリみてが百合ではないことを指摘しただけであり、それを百合として見る分については否定しない。英語で言うと、「A is B」は許されないが、「A as B」は個人の自由なのである。
 したがって、上記論述をふまえた上で、それでもマリみての二次創作を百合に仕立て上げるのは、二次創作のための思想そしてテクニックであることは自明の理である。かくいう私も、「特別でないただの一日」にて、待ち合わせをする聖と蓉子の二人を、無理矢理百合と解釈する二次創作小説「40 minutes」を発表している。
 二次創作とは、ある作品を「ジャンル」すなわちプラットフォームとして自らの思想を表現する手法であると言える。二次創作には原作の設定が最大限活用されるが、すべてが原作である必要はなく、思想や解釈の差が反映される余地は十分に残っている。

タグ: , ,