二律背反とは弁証待ちの状態 ―― to a higher place!

[2007/12/25 19:40 初稿 // 19:52 文中に少しだけ追記]
・『おとボク』が『マリみて』の存在意義を否定するものでないこと
・『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと

だいぶ昔の記事でのコメントにて、上記二つを証明するチャレンジを受けた。
証明の題材を書き散らすだけであれば非常に容易いが、実際に分かる文章で書くとなると非常に難しく、現在も難航している。要するに、自らの理論に振り回されすぎ、当面、完成しそうにないわけだ。だいぶ難航したが、2009年5月になり、なんとか仕上げることができた。

【1:マリみては百合じゃない ―― “Love” is only a strong word of “Like”】
【2:男なのにお姉さま、男女の恋愛なのに百合? ―― see the boy in a viewpoint of yuri, or shojo-ai】
【3:「可愛い」は、女の子の特権じゃない ―― to be pretty is justice, even if the one is a boy or a girl】
【4:百合? ヘテロ? だから何。 ―― you need not consider gender when you fall in love】
【5-1:「百合」の言葉を定義する ―― clarify “yuri” as a difference with “sho-jo ai”】
【5-2:CTRLキーからエロゲーを考える ―― do we need porno in hentai game?】
【5-3:常識という鎖にとらわれた、哀れな子羊への鎮魂歌 ―― no one can understand revolution if his world is only one】

第1章では、命題の1「『おとボク』が『マリみて』の存在意義を否定するものでないこと」を示す。
具体的には、マリみてについて、ジャンルの近いとされる作品と比較しながら検討する。

第2章から第4章にかけて、命題の2「『おとボク』が異性愛中心主義を助長するものでないこと」の証明を行う。
第2章では、おとボクについて、第1章とは別の立場からマリみてと比較しながら検討する。
第3章では、おとボクから離れ、女装少年というものについての考察を行う。
第4章では、作品世界の議論を離れて、社会学と生物学の観点から、現実世界の議論を展開する。

以上が、示された命題に対する私なりの解答となる。

第5章では、私から彼の論説そのものへの反論を、3つの行いつつある。
5章の1では、百合という言葉について、ケーススタディに強い「定義」を示し、その考察を行うことで、おとボクの立場を確認する。
5章の2では、現在流通するアダルトゲームの性質を考察することで、おとボクの立場を再確認する。
おとボクに関する考察は、5章の2で完了する。
5章の3では、より一般的に、論説に対する私の見解を示し、彼の論説そのものへ反論を行う。

形としては、彼に、先に「統括」されているが、こちらとしては、まだ、言いたいこと「しか」言ってない(納得できるだけの証拠をつきつけていない)ので、中間地点としては仕方ない着地点なのかな、と。

私の場合、自分の理論に自分自身がついて行けないことはしばしばあるが、おとボクについては、それが特に顕著であるため、記事の完成はしばしお待ちいただきたく。
自分との戦いはまだしばらく続きそうではあるが、本記事が埋もれないうちに、更新できれば幸いと思う。
本件に関する私の論説は、おそらくはここまでとなろう。修正がある場合、(漢字/語句の単純ミスを除いて)該当の記事に更新履歴を残す予定である。

[2008年3月7日 2:05]
上記記述の修正を行いました。
文章の分量の問題から、2章を3分割し、章番号の付け替えを行っております。
[2008年4月22日 23:59]
第3章をアップロードしました。
[2008年5月2日 23:59]
第4章をアップロードしました。それにともない、本文を修正しておりますが、論旨に変更はありません。
[2008年12月18日 14:47]
第5章を3分割し、最初の一つをアップロードしました。
[2009年4月12日 12:54]
第5章の2番目をアップロードしました。それにともない、本文を修正しておりますが、論旨に変更はありません。
[2009年5月1日 2:54]
第5章の3番目をアップロードしました。それにともない、本文を修正しております。

タグ: