4:百合? ヘテロ? だから何。 ―― you need not consider gender when you fall in love

 さて、前章で述べたとおり、二次元の世界を抜けて、一度三次元の世界へ戻って議論を進めてみる。
 しかし、戻ってきたところで、実は現実世界の側も常識の推論は万能ではないことが分かる。
 では、極端にして深刻な例から一般的な例に向かって、少しずつ「性別」の意味の薄れについて議論していくことにしよう。
 そこには、現代社会と呼ばれる、科学という名前の魔法に満ちた社会がもたらす影響を強く読み取ることができる。

「進みすぎた科学は魔法と区別がつかない」――A.C.クラーク

4.1 区別のつかない性別――性同一性障害、仮性半陰陽
 ホモ・サピエンスという種は受精後、メスとしての体を持つ。そのうち一部は、男性ホルモンの影響でオスに分化し、残りは男性ホルモンの影響を受けずメスとしてそのまま育つ。詳しいことは専門のサイト池田クリニックより)をみていただきたいが、理解した後に考えるべきことがある。
 肉体、および、脳の性分化が決して一様ではないことは、上記サイトにて明らかと思う。すなわち、男性ホルモンという、「密度と効果にむらのありうる」化学的作用について、遺伝子の都合によって「量に差のある」男性ホルモンと、男性ホルモンの効果の「質に差のある」受容体が影響するというこの不安定な状況下、男性ホルモンの効果の差による性の「中間状態」が存在しうるのは十二分に考えられる。その証左として、性同一性障害や仮性半陰陽などが存在し、彼らが社会通念に苦しめられる事実を持ち出すのはたやすい。
 このような中で男女を区別する方法は、遺伝子がXX(or XXX)かXY(or XXY)で区別するのがもっとも確実な方法ではあるが、この方法でも問題は残る。たとえば、睾丸性女性化症候群の場合、身体的特徴が完全に女性であるにもかかわらず、遺伝子XYと睾丸を持ち男性として扱われなければならない、などの弊害も存在する。
 果たして、生物的に男女を厳密に区別することは可能なのであろうか。そして、例外に対して、区別の範囲外として存在を否定することは、許されるのであろうか。

4.2 労働の男女差は消えゆく――肉体労働から頭脳労働、そして感性労働へ
 男女差というものを考えたとき、男性の方が女性に比べて力が強いというのは、統計的に明らかである。しかし、現代社会における労働に必要なスキルを見回してみると、肉体的な差については無視してよい社会になりつつある。
 (違法な労働現場はともかくとして)肉体労働については、時代が進むごとに男女格差を考慮する必要が薄れつつある。男女格差の他に考えるべき問題として、障害者対応や定年後の再雇用などがある。つまり、肉体労働について不利な者を労働者として受け入れやすくする方策が必須であるが、この方策そのものが、若手・中堅の健康を維持する役割も担う。すなわち、無理をしない方策が危険回避につながるのだが、この方策は肉体労働の男女格差を埋めることにもつながる。整備された男性のみの職場に女性を招くことは、トイレ・更衣室の問題くらいしか残らない(もちろん、生理休暇など法的ルール整備の問題はあるが、それは職場の問題というより企業の問題である)。補足するが、ここでの肉体労働とは単純労働を意味しない。高度な経験と知識を必要とする肉体労働はいくらでもあり、それゆえ「経験と知識を持つ者/学ぶ者」を手放すことは企業戦略上許されない。
 そして、肉体労働の男女格差が埋まっていくとともに、社会ではサービス業(頭脳労働、感性労働)の割合が増えてくる。ここでの頭脳労働とはデスクワーク(研究、開発、事務など)、感性労働とは対人作業(営業、販売など)と定義するが、一般に両者に明確な区分はない。頭脳労働や感性労働は教育(専門能力、人間力)が鍵であり、真の意味で教育が達成されていることが労働の成否を決めるポイントとなる。教育の達成可能性とそのレベルおよびコストについて、統計的には男女差を認めるが、あくまで個人の能力と責任の範疇に過ぎない。
 さらに言えば、頭脳労働のうち、単純作業が本質のものについては、重複を徹底的に削除し、定型的作業を徹底的に自動化することで、頭脳労働や感性労働に関連するミスを低減し、より多くの人的リソースを創造的作業に割くことが可能となる(完全に定型的作業とされる労働の種別でも、新規プロセスの創造やプロセス改善・環境の変化への対応など、創造的作業の余地は多いことに気をつける)。
 そして、創造的作業の成否は個人の素質と経験に大きく左右されるばかりでなく、多面的な視点が必要となる。多面的な視点を確保するためには男女の差が必須となるが、これも「個人の経験」に含まれる事柄といえる。

4.3 確率は一瞬の運に対して無力――統計信仰の罠を抜け出せ
 さて、上に記した「個人差」であるが、基本的には「性差」より大きいものと考えるべきである。たとえば、男子は女子より柔道が強い、というのは一般的事実であるが、その辺の一般人を捕まえて、女子柔道金メダリスト「ヤワラちゃん」こと谷選手に柔道で勝てるかと言われれば、ほとんどの場合「ノー」であろう。
 これは極端な例であるが、男性と女性をランダムに一人ずつ抽出したとき、女性の方が男性より身体的能力が優れていることは、確率的には意外なほど高い。確率を数学的に計算するためのデータを持ち合わせているわけではないが、平均値の差を考慮した状態で頭の中で正規曲線を描くと、重なる領域が意外なほど大きい。
 もちろん、トップ同士、平均値同士を比較すれば、身体的能力において、男性優位はデータとして明らかであることに異論を挟む余地はない(もちろん、柔軟性など女性の方が身体的能力が高い場合もある。これを考慮する場合、以降の男女関係について適宜読み替える)。ただし、ある男性とある女性について、男性の身体的能力が平均より低く、女性のそれが平均より高いことは十分に考えられ、この場合に男性と女性の身体的能力の比較値が平均と逆の値を示すこともままある。したがって、直接的・肉体的な性的関係を除いて、男女の一般的な関係を固有の個人的関係に持ち込むのは危険といえる。まして、「常識」と呼ばれる概念が平均値のみを見て分散を考慮しない「統計信仰」の罠に引っかかっていることは、個人の能力を殺す「男女差別」の発生を助長しうる危険要素である。
 当然、この話は身体的能力に限らず、学力等計測可能な人間の能力すべてにあてはまる。また、統計については「統計採取時のゆがみ」を考慮し、補正する必要がある。たとえば、学校の成績の平均が「女子の方が高い」という事実が指摘されているが、これを直接「女子の方が頭がよい」と読み替えるのは危険であることは明白である。別のデータからは、「最難関大学への入学者数が男子の方が多いため、男子の方が頭がよい」という言い方もできる(言うまでもないが、これをもって「男子のほうが頭がよい」と結論づけるのも同様に危険である)。100点満点で平均点を60点としたテストを行えば、100点取得者は成績を過小評価されるし、平均点を10点としたテストを行えば、0点の取得者は成績を過大評価される。また、学習達成度をみる試験など試験範囲が狭い場合は単純暗記が有利、応用能力を測る試験など試験範囲が広い場合は基礎力と論理的考察力の高い側が有利、など、条件もさまざまである。
 このように、複雑な環境を「統計処理」という「読み方単純化ツール」を用いて処理する場合、ツールの性質を十二分に考慮する必要があり、信頼性のそれほど高くないツールが示した結果を鵜呑みにして、誤った「常識」を作り上げるのは愚の骨頂といえよう。

(補足)上記においては、統計の信頼性について否定的に書いているが、統計は「分散」「標準偏差」などの、自らの信頼性を評価するツールを備えている。統計の信頼性が低いとは統計データが自身に示している結果であり、結論の信頼性を自己評価できる統計学が、サンプルデータを集めて意見を述べるだけの学問より圧倒的に高い信頼性をもつ何よりの証左である。有用なツールほど、使い間違えると怖い結果が待ち受けていることを示す好例であろう。

4.4 生物学の社会性理論――恋愛は完全に個人の自由だ
 生物学の最新理論のひとつに、「利己的な遺伝子」という考え方がある。Wikipediaの「社会生物学」の項にあるとおり、「生命は遺伝子の容れ物に過ぎず、この世界は(生命ではなく)遺伝子による生存競争である」という考え方をベースに、「自己犠牲」「ライオンの子殺し」「癌の存在」など、今までの理論では理由の説明できなかった生物の行動学を解き明かしている。
 この中で特に重要なのは「真社会性」である。これは、「生殖を捨て、自らの属する血縁あるいは社会に貢献する」という自己犠牲の精神が、生物の生存戦略上正しいことを数学的に証明している。あいにくと私は専門外なので証明の数式を目にしているわけではないが、蟻や蜂といった、子供を生まない個体を多く抱える生物が隆盛を誇っている現状、この理論の正当性は保証されていると言って良いだろう。
 さて、自己犠牲について考えてみる。自己犠牲とは親が子に対して行うものが多いが、このとき、一人の子に対して、自己犠牲を行う親は多ければ多いほど、子の生存確率が高まることは容易に想像できる。このとき、社会の「働く層」と「子供を生む層」について、蜂の社会をお手本にした仮定のもと、計算を行ってみたい。

 m人の「子供を生む層」を定義する。一人の「子供を生む層」に対して、n人の「働く層」が存在する。子供を生む層は子供を生み育て、働く層は子供を危険から守る役割を果たす。
 社会全体がx人で構成されている場合、x=m×(n+1)である。
 今、仮にx=12とおき、(m,n)=(2,5)の場合と(m,n)=(6,1)の場合について考察する。
 前者の場合、それぞれの「子供を生む層」は6人の子供を生み、子供は5人の「働く層」が守る。このとき、それぞれの子供は、5÷6=0.83人によって守られている。
 後者の場合、それぞれの「子供を生む層」は2人の子供を生み、子供は1人の「働く層」が守る。このとき、それぞれの子供は、1÷2=0.5人によって守られている。
 すなわち、同じ12人を維持する場合、「働く層」による守護を手厚くするためには、「子供を生む層」の人数は少なければ少ないほど、また1人の「子供を生む層」は子供を多く生めば生むほど望ましいことになる。
 もちろん、この場合の最善策は(m,n)=(1,11)であり、12人の子供を11人で守る(それぞれの子供は0.91人に守られる)ことがもっとも望ましく、これは蜂の社会(ただ1人の女王蜂と、できるだけ多い働き蜂)を示している。

 さて、「子供を生む層」の考察はこれくらいにして、次はこのシステムにおける「働く層」について考察する。「働く層」に所属している場合、生物戦略上はひとつの制限が存在する。
 それは、子供を生んではいけない、という制限である。
 この制限は、「働く層」が「子供を生む層」に転化することは「働く層」の密度を低くするため、子供を守りきれなくなる可能性に直結するために存在する。その証拠に、蟻や蜂における「働く層」、すなわち働き蟻・働き蜂の個体はすべて、子供を生めないメスである。

 すなわち、社会とは役割分担であり、生殖活動もその例外ではない、ということである。

 人間についても同様であるが、ここで「働く層」がとりうる恋愛戦略について考えてみたい。
 すべての人間が「子供を生む層」に所属しようとする場合、一般に言われるように男女の恋愛が正常とされ、男性同士あるいは女性同士の恋愛は拒否される。また、恋愛に参加しない、という戦略も自らの遺伝子を放棄するだけの愚策と映る。
 しかし、先にも述べたとおり、社会性生物の「働く層」に生殖は必要ないことから、生殖活動の存在し得ない同性同士の恋愛は戦略上正しいものとして考えて問題ない。恋愛が結婚の前段階に過ぎない場合は「働く層はそもそも恋愛してはならない」が、お互いの心を安らげ豊かにするものであるとすると、働く層における恋愛は生産効率を高めるためむしろ推奨される。このとき、働く層における恋愛は異性間だけではなく、同性間においても推奨されることとなる。もちろん、読書や学問など、恋愛以外によって心を豊かにすることもできるため、恋愛の必要がない層も存在してよい。

 異性同士、同性同士、恋愛拒否、この三者がそれぞれ自由に振る舞い、異性同士の恋愛を選んだうちの一部がたくさんの子供を生み育て、社会全体でそれを守る。これが、本来あるべき人間社会であると思うのだがいかがであろうか。

 なお、蛇足ではあるが、本項には「子供を生む層」「働く層」の強制固定化を認める論旨は一切存在しない。生きる道の選び方はすべて各個の意思によって決定されるべきであり、本人の希望と適性と能力にふさわしい層に所属するべきである。本人の能力を殺す層に位置づけられ、尊敬されずに不幸な一生を送ることは、人権の観点からも社会性の観点からも許されることではない。

4.5 まとめ ――ここに生まれる一つの魔法
 ここまで、「性別の狭間に生きる存在」、「労働における男女差」、「性差と個人差の比較」、「社会性生物の生存戦略」の4つの視点から、性別と恋愛にかかわる常識を疑うための論述を行った。
 このような考察を行った理由は、前章に示した以下の論旨が現実社会に通用するかどうか、という思考実験であった。

二次元のキャラクターにおける「実際の」性別を考慮してやる意味は、実はほとんどなく、重要なのは、「可愛い」「美しい」など、個人の持つ性質である、という点が明確化されるためである。もちろん、これらの性質を兼ね備える者の多くは女性ではあるものの、すべての女性が持つ性質ではなく、また一部の男性が持つ性質でもある。

 前章では、二次元キャラクターにおける「女の子らしさ、かわいらしさ」に特化した考察であったが、本章ではより一般的な、生物としての人間の立場から考察し、より強い結論を導いている。
 すなわち、人間の個々が行う恋愛活動において生殖は本質ではなく、それゆえ性別は本質ではないという考えである。

 もちろん、このような考え方が発生するのは、生存における性差の必要性が極限まで吸収された科学万能の時代ゆえであるが、これは我々が生きている時代そのものであり、通用する常識が生物の1世代より圧倒的に速く変化するという、まさに前代未聞の常識が「科学技術」の名を持つ魔法によってもたらされていることを示している、と言えよう。
 なお、ここで語ったパラダイムシフトについていけるのはごく一部の限られた人間だけである。一般的に多様化した概念のすべてをフォローする必要はないし、できるはずもない。
 ただし、ある拒否反応がもたらされた際、その感覚が本能から来るものか、理性から来るものかは、あらかじめ明白に切り分けておく必要がある。理性すなわち常識で脊髄反射をする前に、自らの知識の限界を知り、知らないものについての的外れな批判を慎む。あらゆる場所で多様性が叫ばれる現代、このくらいの態度はそれこそ「常識」として持っておきたいものである。

 話を戻して、本章の指摘のように恋愛において性別が本質でないのであれば、BLも百合も、あらゆるセクシャルマイノリティでさえも普通の恋愛の範疇である。
 第2章から本章までかけて議論してきた結論を、もう一度示す。

「恋愛は心でする物であって、性別でする物ではありませんよ?」―― 十条紫苑(処女はお姉さまに恋してる)

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