「百合」の言葉を定義する ―― clarify “yuri” as a difference with “sho-jo ai”

 本章は2008年5月より執筆を開始したものですが、「百合」への理解不足が原因で完成が遅れてしまったことを、まずお詫び申し上げます。

 さて、この間、本コラムを見ていただいた方の日記にて、次のようなコメントをいただきました。

『マリみて』は百合(恋愛物)でなく友情物である。 それの唯一かつ成功した模倣は『おとボク』って論。
友情物であるのは分かるが、それが即百合でないというのは 定義の問題か?
――TomOne の ねもと6月11日の日記より

 このご指摘はごもっともであり、本来では最初に解消すべき疑問点でした。
 しかし、「本題と少し遠い/非常に難しいから」と後回しにしていたことをお詫びするとともに、本章では、この問いに答えるべく、百合の「定義」についてじっくりと考察していきたいと考えています。

5.1 百合論 ――百合とレズは何が違う?
 web上で「百合」を扱う論説では、「百合」と「レズビアン」の区別は明確に存在しているとされる。しかし、私は寡聞にしてその差を定義している論説にお目にかかったことはない。百合とレズビアンの差を語るサイトは多くあるが、ケーススタディに耐えうるだけの頑健さを持つだけの論理性を持たず、それゆえ、これらの差の定義に失敗している印象しか残らない。
 一つの言葉は多数の意味を持ち、その解釈は人によって多種多様であることは言うまでもない。しかし、言語の定義を自らの感覚のみに任せ、自らの用いる単語の定義を示さないことは、言葉の曖昧さに対する責任をすべて読者に押しつけることとなる。
 これは、読者のための論説としては致命的な失敗――あるいは、論者失格の烙印を押されるべき傲慢――と言える。
 したがって、まずは私なりに、「百合」という言葉を再定義することから始めたい。

 ただし、正しく定義するということは、それ自体が非常に難解であり、数多くの論者がこの点を曖昧にしたまま気がつかないことはある意味致し方ない部分もある。

なにかを定義するとき、属性を挙げて対象を記述することは比較的たやすい。しかし、対象の本質を明示的に記述することはまったくたやすいことではない。
――福岡伸一「生物と無生物の間」(講談社現代新書,2007)

 話の前提として、現在この二語についての現状を、私の視点から確認したい。
 「百合」と「レズビアン」の差について、現状統一した見解は存在していない。しかし、百合とレズビアンという二つの言葉について、厳然と区別している論者は多く存在している。
 もっとも多い区別としては、百合は精神的なもの、レズビアンは肉体的なものとする考え方である。要するに、性的関係を持った場合はレズ、持たない場合は百合とする分けかたである。
 また、これに関連し、レズビアン関係のもつ「女特有の執念」が存在しない同性愛が百合とされることも多い様子である。
 あるいは、単純に「二次元(アニメ、アダルトゲーム等)」を百合、「三次元(現実、あるいはアダルトビデオ)」をレズビアンと分ける場合もある。
 もちろん、最大の派閥は「百合」と「レズビアン」を全く同じものとして扱うものである。本稿でも、前章まではこの定義を採用している。しかし、この定義を採用してしまうと、百合論において、百合とレズビアンを区別する理由――あるいは区別する目的――が消えてしまうため、本章でこれを採用することはできない。

5.1.1 百合の再定義 ――甘酸っぱければそれでいい
 百合という言葉を再定義するにあたり、「乙女はお姉さまに恋してる 櫻の園のエトワール」(以下エトワール)の感想文のなかで、注目すべき一節を引用する。

お嬢様学校で百合モノという幻想を恥ずかしげも無く形にしたものです。
(中略)
ただガチな百合モノというよりはどちらかと言うと、女子同士の甘酸っぱい先輩後輩って感じでした。
――masa-no-ji、「空の灰皿」記事 [ライトノベル]『乙女はお姉さまに恋してる』読了より

 これは、エトワールは百合ではないとする感想であるが、そのいっぽう、同書は百合の傑作とする感想も多い。未定義語である「百合」か否かの議論は横に置くとして、ここで注目すべきは、「甘酸っぱさ」というキーワードである。
 作品世界におけるキャラクターの感情をなぞったときに、甘酸っぱさを感じるか否か。百合の名作と名高い(が、私は第1章で百合ではないとしている)「マリア様がみてる」シリーズ(以下マリみて)においても、「先輩後輩の甘酸っぱさ」を感じさせる表記は数多く、また、「友人関係の甘酸っぱさ」も同様である。

 したがって、本章では、百合を「甘酸っぱさを本質とする女性同性愛」、レズビアンを「甘酸っぱさを本質としない女性同性愛」と定義する。

 この定義は、「性的関係の有無」、「女特有の執念」、「二次元/三次元の区別」などの区別を大まかには含むこと、ただし完全には含まないことに注意する。性的関係をもつ人間関係は多くの場合、甘酸っぱさを感じる人間関係よりずっと近い距離にある。独占欲に支配された後には、葛藤により生まれる甘酸っぱさは存在できない。また、現実世界で甘酸っぱさを感じるのは恋愛をしている当人だけであり、性的交渉を主眼とするアダルトビデオに甘酸っぱさを取り入れるには冗長が多すぎる。

 さて、マリみてやエトワールが「百合でないのに百合と評価される」ことについて、以下の推論が成り立つ。
 1. 友情や先輩後輩の近しい関係は甘酸っぱさをふんだんに感じさせる。
 2. 女性同士の近しい関係性である。これは、女性同性愛を示唆するような誤読を招く。
 3. 1.および2.より、「女性同士の近しく甘酸っぱい関係」を「甘酸っぱさを本質とする女性同性愛」と取り違え、百合と解釈してしまう誤読を招いている。

 この誤読は、第1章に述べた「百合ではない」が「百合としてみることが可能」な解釈にあたる。

5.1.2 百合の公理系 ――甘酸っぱさって何なんだ?
 さて、上記の「甘酸っぱさ」という言葉について、定義を与える必要がある。
 百合論における甘酸っぱさを定義するにあたって、一度辞書より定義を引く。

あまずっぱ・い 5 【甘酸っぱい】
(形)
(1)甘みと酸っぱみとがまじった味やにおいである。
「―・いパイナップルの香り」
(2)こころよさに少し悲しみを伴った、やるせない気持ちである。
「―・い初恋の思い出」
[派生] ――さ(名)
(三省堂 大辞林第二版; goo国語・新語辞書より)

あまずっぱい 甘酸っぱい
sweet and sour; tart.
・〜青春の思い出 bittersweet memories of one’s youth.
(三省堂 EXCEED 和英辞典; goo和英辞書より)

 このとおり、甘酸っぱさの語そのものは、恋愛と直接結びつく定義ではない。ただし、用例としては恋愛や青春といったものに多く用いられている様子である。

 ここから、甘酸っぱさについて、考えていく。
 やるせなさと書かれているところから、甘酸っぱさ人間関係を示す語であることは明白である。また「悲しみ」とある点から、近しい関係であることもわかる。すなわち、甘酸っぱさとは恋愛や友情など、近しい人間関係に適用される語である。辞書を見ると、甘酸っぱい、という語には初恋や青春などの例が引かれていることからも、納得できよう。

 このとき、甘酸っぱさについて二つの意味を見いだすことができる。
 (公理系A)甘酸っぱさとは、青春を構成する人間関係における複雑な感情を示す。
 (公理系B)甘酸っぱさとは、恋愛を構成する人間関係における複雑な感情を示す。

 いちど、百合の定義を少し広げて、「甘酸っぱさを本質とする女性間の人間関係」と再定義し、これを広義の百合とよぶ。
 確認まで、本章では百合を「甘酸っぱさを本質とする女性同性愛」と定義している。以降、これを狭義の百合とよぶ。
 広義の百合の定義を用いて、公理系Aを用いて意味を解釈すると、「青春としての女性間関係」となり、これは狭義の百合とは一致しない。この意味を用いると恋愛ばかりでなく友情や近しい上下間関係なども本定義に吸収されることから、百合とレズビアンは明確に異なる意味を持つ。通常用いる「青春」との差違は、人間関係に男性を含むか否か、として明確に分離できる。
 同様に公理系Bを用いて解釈すると、「恋愛としての女性間関係」となり、狭義の百合と意味が一致する。このとき、レズビアンとの差は「複雑な感情」の有無にとどまるが、近しい人間関係はそもそも複雑な感情を持つのが一般的のため、レズビアンとも意味が一致する。

 次章では、公理系Aを用いて再定義した百合を「青春としての百合」、公理系Bを用いて再定義した百合を「恋愛としての百合」とよぶ。
 このとき、百合・レズビアン対比論を含む百合関連の論説においては、百合を「青春としての百合」に、一般的な文脈においては、百合を「恋愛としての百合」に定義づけている、と推定できる。
 もちろん、「恋愛としての百合」は上記の通り「レズビアン」と同じ意味をもつ。

5.1.3 百合の定理系――実例で考える
 以上で話のほとんどは終わりであるが、定義ばかりで退屈された読者も多いと思う。
 そんな、「だから何?」の声にお応えして(←いつアンケートとったよ?)、この定義で説明できることの一部について、例を挙げて説明していきたいと思う。

 (例1:マリみては百合か?)
 第1章に提示したとおりマリみては友情を中心とした人間関係を描いているため、「青春としての百合」であればYES、「恋愛としての百合」であればNOという結論を得る。
 本章以外において、本論説は百合を「恋愛としての百合」と定義し論述しているため、論説全体における不整合は存在しない。また、マリみてを百合の金字塔と定義している各種論説も、百合を「青春としての百合」に定義すれば整合する。

 (例2:おとボクは百合のようなものでいいのか?)
 第1章に提示したとおり、おとボクの場合、実性別に目をつぶれば「青春としての百合」「恋愛としての百合」の両方に当てはまる。このときに問題となるのは、瑞穂が男性である点だが、この点の対応も第2章・第3章で確認済み。

 (例3:ストパニを百合と定義したくない人々がいる)
 ストパニの場合、「恋愛としての百合」については問答無用だが、「青春としての百合」について疑問点が少し残る。この疑問点については、主要な人間関係を「擬似的な恋愛」として表現する同作品の性質から、青春としての価値観が損なわれている可能性について指摘することで疑問点を明白化できる。

 (例4:「百合」の議論が紛糾する理由)
 世の中で「百合」をめぐって議論が紛糾している理由については、上記の定義を比較すれば明らかであろう。複数の論者が同じ言葉を巡って、「恋愛としてOK」「青春としてNG」など、定義のすりあわせを実施することなく自前の理論を語り続けているのではきりがない。
 筆者の感触では、男性の場合は人間関係を重視するタイミングが成長の遅いタイミングであることから、恋愛と青春の共通点が少ない。このため、男女間の関係については、恋愛と青春の区別は比較的容易である。
 しかし、女性間関係の場合は早くから人間関係を重視し、人間関係のスキルを磨くことが重要であるため、人との親しいつきあいかたについてが青春の主眼となる場合が多いと推定される。このとき、友情と愛情の境界を考えるなど、青春と恋愛のオーバーラップが多く、また境目の曖昧さが問題となりやすいため、「百合」の用語定義がぶれやすい。
 蛇足ながら、この議論ではもちろん、初恋などの恋愛と青春を同時に兼ね備えたケースについては考慮の対象外である。

5.1.4 まとめ――感覚は、感覚によってのみ定義される
 本章では、次のことを述べた。

 (1)女性間関係の「甘酸っぱさ」として、百合を再定義した。
 (2)百合とレズビアンを同一のものと見る向きを、甘酸っぱさ=恋愛、の解釈に落とし込んだ。
 (3)百合とレズビアンを異なる用語と見る向きを、甘酸っぱさ=青春、の解釈に落とし込んだ。
 (4)(2)と(3)について例を挙げ検討した。

 これにより、百合という言葉の定義の差を明白とし、議論をわかりやすく整頓することが可能となった。
 なお、「青春」と「恋愛」の個別の用語定義について感覚による解釈の余地は残っているが、個人の認識が感覚によって成り立っている以上、定義の曖昧さはどうしても残る。
 ただし、典型例のみを示し定義を読者に委ねる方法に比べ、曖昧さの原因を追求し、簡潔な定義の中にそれを示していることで、「言葉の曖昧さ」に関する説明責任は果たしたと考えている。

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